日本の敗戦後も台湾にとどまっていた沖縄出身者の帰郷がようやく始まったのは1946年10月のことです。台湾総督府の建物で暮らしていた中島政彦さん(89)=那覇市=と家族は、LST(戦車揚陸艦)で基隆港を離れます。
中島さんは「台湾人は沖縄県人を、民族の歴史的背景から同じ道のりを歩んできた『朋友』として親しくしてくれた」と振り返り、その恩を忘れません。
《台湾で生まれ、台湾で育った私たちワンセイ(湾生)にとって、台湾はかけがえのない母国であった。それが痛ましい戦争によって生まれ育った台湾を離れるのは忍びなかった。
引き揚げ船LSTのデッキに上がり、遠のく台湾の山々の景色をいつまでも眺めて、思いにふけった。》
船内では船酔いで苦しみましたが、皆が帰郷の喜びをかみしめていました。
《台湾沖の波は高く、あちこちで船酔いの嘔吐(おうと)が聞こえる。しかし、故郷へ帰れるという喜びは船内に満ちあふれており、伝統の三味線や民謡が奏でられ、心を癒やしてくれる。
郷里を一つにする同郷のよしみからか、甲板ではのど自慢や空手が披露され、最後には皆で踊り出し、喜びと感動は口笛として鳴り響く。それは歓喜をかみしめ、共に喜ぶ民族の叫びのように思えてならなかった。》
中島さんらを乗せたLSTは中城村久場崎に到着します。