文学不毛の地を照らした「巨星」 大城立裕さん死去 沖縄見つめ続け、創作意欲最後まで


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「カクテル・パーティー」で芥川賞受賞の連絡を受け喜ぶ大城立裕さん(中央)と家族、友人ら =1967年7月21日、那覇市首里汀良町の自宅

 沖縄初の芥川賞作家の大城立裕さんが27日に死去したことを受け、県内外で衝撃と悲しみが広がった。戦後の米統治下の時代から沖縄が置かれた厳しい状況を見つめ、小説や舞台作品などで表現してきた重鎮を失い、深い喪失感が漂った。遺体が安置されている浦添市の葬祭場には同日夕から夜にかけて弔問客らが訪れ、別れを惜しんだ。

 1925年、中城村に生まれた。戦前の皇民化教育の中で育ち、太平洋戦争中の43年に中国・上海の東亜同文書院大学へ入学するものの在学中に兵役へ。終戦後に帰沖し、高校教師や琉球政府職員を務める傍ら小説や戯曲を書いた。米統治下で沖縄の苦難を感じ、日本への復帰後の過重な基地負担も独自の視点で捉え作品に反映した。

 67年に芥川賞を受賞した「カクテル・パーティー」にも日米間で揺れる沖縄の立ち位置が反映された。沖縄の歴史や文化に根差した作品を次々に生み出し、文学不毛の地と言われた沖縄を勇気付け、多くの作家が後に続いた。

 大城さんの歩みをつづった「大城立裕 文学アルバム」(2004年)の編者で、大城さんと相談しながら原稿をまとめた文芸評論家の黒古一夫さんは「沖縄の近代文学の水先案内人となって後輩の作家たちをけん引した作家だ」と強調。「『カクテル・パーティー』も素晴らしいが、『亀甲墓』『棒兵隊』などは沖縄文学らしさを感じる作品で、本土に住む人間にも訴え掛けるものがあった」と振り返った。

 亡くなる約1週間前。演出家の幸喜良秀さん(82)は電話で大城さんと最後の会話を交わした。病床の大城さんは、途切れながらの会話の中で「今、作品を書いているが、出来上がりが悪く、推敲(すいこう)しないといけない」などと話していたという。幸喜さんは「最後まで創作に意欲を見せていた。作家の執念だ」と敬意を表する。

 87年に設立した「沖縄芝居実験劇場」では、第22回紀伊國屋演劇賞を受賞した舞台「世替りや世替りや」を皮切りに、大城さんが書いた脚本を幸喜さんが演出する形で何度も共に舞台を作り上げてきた。新作組踊も含め、琉球併合(琉球処分)や沖縄戦など沖縄が直面した苦難の歴史を舞台で表現した。

 幸喜さんは「大城先生は沖縄の文化を世界の文化へ押し広げ、世界の人たちに沖縄を知らせることに情熱を燃やしていた」と話す。「大城先生が私たちに教えてくださったことを咀嚼(そしゃく)、吟味して、沖縄の文化、文学、演劇、音楽、舞踊を世界へ発信し続けていくことが恩返しだ」と今後も大城さんの作品の舞台化に取り組む決意を語った。