「文化果つるところというジンクス破った」 大城立裕さん語録


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インタビューに応じる大城立裕さん=2019年2月16日、那覇市内

「今後とも『沖縄』と『沖縄の人間』だけがわたしの主題であり、沖縄を離れて文筆業に専念する考えは今のところ持っていない」

(沖縄出身者で初の芥川賞決定に関して1967年7月22日付本紙掲載コメント)

■「沖縄は文化果つるところだというジンクスを破った」

(1967年7月22日付掲載の芥川賞受賞を受けた本紙座談会で)

■「非人道的なこの事件は、基地がある限り、いかに綱紀粛正を図ろうと絶滅することは難しい。差別は民衆レベルではなく政治のレベルで残っている」

(95年の米兵少女乱暴事件発生後の10月20日付本紙掲載の論考で)

守礼門前で話をする大城立裕さん=2014年7月23日、那覇市首里

■「日本復帰を『第二の琉球処分』と呼ぶ風潮に私は抵抗したが、今回はまさに『第二の琉球処分』だ」

(2005年に日米両政府が米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設で合意したことと、公有水面埋め立てに関する知事権限を実質的に奪う特措法を検討したことについて05年10月31日付本紙インタビューで)

■「丁寧語があれば、うちなーぐちにも共通語が生まれていた」

(2011年9月3日、那覇市文化協会主催フォーラム『しまくとぅばは今…』で)  

■「(沖縄社会は)政府に対し県民投票という大げんかを売るまで成長した」(19年2月26日実施の辺野古新基地建設に伴う埋め立ての是非を問う県民投票について同月22日付本紙インタビューで)

■「涙を流す人も合掌する人もいた。その思いの底には、故郷喪失にも似た深い悲しみがあったに違いない。焼ける前は息を飲むほどに美しく神々しかったせいで、74年前に戦禍で打ちひしがれた県民の自信回復に大きな貢献をしたことになる」

(首里城焼失2カ月を受けた20年1月1日付本紙への寄稿文で)