「反復帰」論争半世紀 権力対峙した晩節に感慨 新川明<戦後沖縄文学の軌跡―大城立裕を語る>4


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 その存在と名前を知ったのは1949年、コザ高校在学中のことだった。

 48年に野嵩分校が独立、野嵩高校が普天間に移った頃、同校に大城立裕(りつゆう)(当時はそう呼ばれていた)という若い文学の教師がいて授業のほか演劇「青い山脈」を指導上演するなど、活気に満ちていることを同校へ移った級友たちから聞き、羨望(せんぼう)の思いを抱いたことによる。

米統治下に刊行し、発禁処分も出たことがある「琉大文学」。原稿を寄せていた大城立裕さん、新川明さんの名前もある

出会い

 50年に琉球大学に進学、文芸クラブ結成準備のため、既に新聞社の懸賞で作家デビューしていた「老翁記」の城龍吉(大城立裕)、「帰郷」の冬山晃(城間宗敏)を招いて文学修行の話を聞く集いを持った。51年の秋だったと思う。

 中心になったのは、奄美出身の当田真延(のちに島尾敏雄奄美図書館長の下で副館長を務める)だったが、結成をみる前に奄美に引き揚げたため計画は流れてしまった。講義が終わった夕刻の首里城跡、空き教室での出会いであった。

 この後、全く新しいメンバーで文芸クラブを立ち上げ、雑誌「琉大文学」を創刊する(53年7月)。原龍次(松原清吉)、新井晄(新川明)が編集責任者になり、後年、文筆で活躍する川満信一、岡本恵徳、具志堅康子、喜舎場順らが顔をそろえ、中今信、新屋敷幸繁、大城立裕の3氏に創刊に寄せる言葉を頂いたが、世代の近い大城立裕の一文「文学的思春期に」の率直で誠実な言葉に励まされた。「社会を、民族を、政治を、もっと文学に―と評論家はいう。そうなのだ、と私も思う。もちろん、何かのためにする傾向的作家やグループの行き方を私は肯定しない。文学は手段ではないから。宣伝道具でもないから」

 ここに終生変わることのない立ち位置が示されているが、本誌の「編集後記」で同じ趣旨のことを書いており、私たちの間に少しの違和感もなかった。それがやがて、決定的な対立を迎えることになる。

発火点

 米国民政府の圧力で琉大当局が「琉大文学」第11号を発禁処分にし(56年3月)、その主要メンバーを除籍処分にした第2次琉大事件(56年8月)の後、残ったメンバーの努力で再刊された第12号に寄せた「主体的な再出発を」(大城立裕)と題する激励の一文に、私が猛反発したのが発火点になったのである。

 「大きな火傷を負ったにもかかわらず、それにもめげず再出発をめざす『琉大文学』の諸君!」という書き出しの一文は、「創刊から五号までと六号以降の転換」に問題を絞り、評論、小説すべてにわたって問題点を指摘するほか、当時私(たち)が傾倒していた社会主義リアリズムを厳しく批判する内容だが、発禁処分や除籍処分という「火傷」を負わした元凶(米民政府や琉大当局)に対する言論表現の自由を擁護すべき表現者の立場からの抗議糾弾の言葉がないばかりか、「関係当局や大学の先生がたの個人的なご理解に感謝をささげたい」と述べていることこそ主体性の欠如ではないか、と反発して痛烈に批判、これが決定打となって、以後およそ半世紀におよぶ対立関係の素地を作ってしまったのである。

 あるいは1975年7月から6カ月間、展開された「海洋博」をめぐっては、県出展委員会座長や事業計画委員として、「海―その望ましい未来」や「海やかりゆし」などのキャッチコピーで事業を主導するのに対して、私は土地買い占めや自然破壊の見地から絶対反対の立場をとっていた。結果は懸念された通り企業倒産の激増、環境破壊が進んで「海洋博後遺症」を招来したが、閉幕4年後には海洋博ブームに翻弄(ほんろう)された人びとを喜劇仕立てで描いた小説「華々しき宴のあとに」を発表、「海洋博に加担した自己の責任意識の苦渋は見えにくい」(鹿野政直)と評されている。私も「自ら加わって演出した宴に踊らされた人びとを喜劇仕立てで小説にする作家の傲慢(ごうまん)を認めることが出来ない」と批判した。

半世紀の論争

 自伝的エッセー「光源を求めて」を沖縄タイムスに連載したのは1996年1月から12月まで約1年。ここでも、「琉大文学」や私のいわゆる「反復帰」論への批判というより非難が繰り返され、97年7月には加筆の上、同社から単行本として刊行されたため、黙止するわけにもいかず「大城立裕論ノート」を書いて反批判をせざるを得なかった(「沖縄統合と反逆」、2000年6月、筑摩書房所収)。従って、この両書を読めば、半世紀におよぶ相互の主張の概略と戦後文学の流れの一端を知ることができると思う。

 ともあれ、2000年代に入ると、現前の状況にアプローチする著作が目立つようになり、15年5月には、辺野古新基地反対県民大会の共同代表に名前を連ねるまでになって世人を驚かせた。卒寿を迎えて権力の横暴に直接対峙(たいじ)する戦列に身を寄せて晩節を全うしたことに思いを深くし、心からのご冥福をお祈りしたい。

(新川明、ジャーナリスト)


 あらかわ・あきら 1931年生まれ。西原町出身。沖縄タイムス社に入社し「新沖縄文学」編集長、「沖縄大百科事典」刊行事務局長、編集局長、社長、会長を歴任し95年に退任。主な著書は78年に毎日出版文化賞に選ばれた「新南島風土記」(大和書房)や「琉球処分以後」(朝日新聞社)など。儀間比呂志との共著に詩画集「日本が見える」(築地書館)や絵本「オヤケアカハチ物語 南風(ぱいかじ)よ吹け」(琉球新報社)などがある。