崎原盛秀さんを悼む 自然環境守る指導者 弁護士・元金武湾を守る会顧問 池宮城紀夫


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崎原盛秀さん

 4日に亡くなった崎原盛秀さんと50年余行動を共にしてきた私にとって、まだ信じられない思いだ。ライオンの立て髪のような髪を振りかざして住民運動の現場に立つ崎原さんは、まさに獅子奮迅のリーダーだった。

 1972年の日本復帰後から、日本の大企業による開発計画が次から次へと押し寄せて、沖縄の自然環境の破壊が現実的になっていった。

 大きな計画の一つが金武湾を埋め立てた巨大な石油備蓄基地(CTS)の建設だった。72年10月、当時の与那城村宮城島と平安座島間の広大な約211ヘクタールの海を埋め立てる工事が三菱開発によって開始された。この開発工事によって金武湾が埋め立てられて、海と陸の自然環境が破壊されることに危機感を持った住民らが反対運動に立ち上がった。反対運動が活発になり、73年9月、安里清信さんと崎原盛秀さんが代表世話人の「金武湾を守る会」が結成され、以後「海と大地と共同の力―生存権を守れ」を合言葉に、県内最大の住民反対運動が展開された。

 反対運動の一環として、74年9月5日、那覇地方裁判所に「公有水面埋立免許無効確認請求事件」を提訴した。ところが、地裁は既に埋め立ては完了しており、原状回復は不可能との理由で却下してしまった。

 反対運動は収束するどころか、77年4月「危険物貯蔵所等建築工事禁止仮処分」を地裁に申請して、闘いを粘り強く続けた。

 「金武湾を守る会」の反CTS闘争は、「当時の屋良県政をつぶすことになる」との理由で否定されていたが、「金武湾の自然を破壊するな」との県民世論の高まりによって支持されていった。政党を中心とした革新共闘から自立した主体的な住民運動として、その後の住民・市民運動に継承され、世界的なサンゴ礁を埋め立てて新石垣空港を建設することに反対する白保の闘いに結実した。今、辺野古新基地建設反対に日夜奮闘している皆さんの多くが、崎原さんと共に闘ってきた方々である。

 崎原さんは住民運動の猛者と思われるだろうが、実は大変気配りが厚く、おおらかな性格で、中学教師の現役時代、問題視された生徒たちにも寄り添い、生徒たちから絶大な信頼を得ていた。運動の傍ら、無農薬の自家栽培の農業をやっていた。身を持って自然環境を守る実践をしていたのだ。私は、ジャガイモ、タマネギ、島ラッキョウなど、いつも新鮮な野菜をあずかっていた。

 崎原さん、安らかにお休みください。合掌。
 (弁護士、元金武湾を守る会顧問)

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 崎原盛秀さんは4日死去、86歳。