沖縄戦を伝える使命感 石原昌家さんが語る語り部の安里要江さん


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語り部として最後の講話を終え、生徒らと談笑する安里要江さん=2019年5月16日、北中城村の喜舎場公民館

 安里要江さんとは戦時中に避難した場所を何度も一緒に歩いたり、自宅を訪ねて話を聞いたりした。何千人もの沖縄戦体験者から聞き取りをしたが、その中でも特に大切な人だった。

 2000年には、要江さん家族が戦場をさまよい、最後に身を寄せた糸満市の轟の壕を、要江さんの孫と、自分の妻も一緒に訪ねた。生後9カ月の長女和子ちゃんを亡くした場所だ。近くに座り込んで長い間、話した。

 要江さんは沖縄戦で和子ちゃんを含めて親族11人を失っている。どんなに悲しく思い出したくないようなことでも、感情を抑えて淡々と話してくれた。

 自分の残酷な体験を子どもや孫には絶対に味わわせたくないと、体験を伝える使命感が人一倍強かった。心に傷を持ちながら自らにむち打って可能な限り語っていた。

 その背景には、子どもや家族を失った悲しみもさながら、他者に思いやりを持てなかったことを悔やむ気持ちがあったと思う。要江さんは母親の教えで思いやりをとても大切にしていたが、避難する道中、水を乞う負傷兵を振り切った。「一滴の水も飲めず死んでいったかもしれない」とずっと悔やんでおり、語ることで贖罪(しょくざい)する気持ちがあったのではないか。

 平和祈念資料館で1999年、壕内を再現した日本兵の模型から住民に向けた銃が取り除かれた時にはものすごく怒っていた。薄暗い壕の中で光る銃剣を目撃し、記憶していたからだ。要江さんは日本兵から「子どもを泣かすと殺す」と言われ、その中で和子ちゃんを亡くしている。どれだけ聞き取りをしても体験者の証言は重みが違う。

 いつかはその時が来ると思ってはいたが、実際にその時が来て、ショックは大きい。

(沖縄国際大名誉教授、談)