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旭琉会抗争30年、凶弾の行方と「勝者」の独白…底冷えの夕暮れから遠く離れて<沖縄発>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

written by 松永 勝利
 

7人が犠牲に

高校生が殺された現場。脚立の下には被害者の靴が残っている=1990年11月22日、那覇市前島

あの日、入社2年目で25歳だった私は社会部の事件担当記者として那覇警察署にいた。警察官と雑談をしていたら、署内が突然慌ただしくなり、パトカーが次々とサイレンを鳴らしながら飛び出していく。

通信指令室に「何かあったんですか?」と尋ねると「前島で発砲事件が発生した」と険しい表情で返された。私はすぐさま250㏄のオートバイにまたがり、パトカーの後を追い掛けた。

那覇市前島の暴力団組事務所前で発砲事件が起きていた。近くで工事に従事していた定時制高校に通う19歳の少年が対立組員に誤って射殺された。路上では住民が不安そうな表情で見守っている。私が現場に到着した直後に「パーン」という乾いた音が響き渡った。銃声だ。事務所の組員が報復で拳銃を発射したようだ。私も周りの人も慌てて身をかがめた。

1990年に起きた沖縄の第6次暴力団抗争。三代目旭琉会の理事長が組織運営をめぐって会長らと確執を深めて絶縁処分となった。組織を離脱した理事長は沖縄旭琉会を結成し、一つの組織は真っ二つに分裂し、凄惨な抗争へと発展した。90年9月13日から11月23日までの72日間で、高校生、警察官2人を含む7人が凶弾で命を絶たれた。負傷者は13人、抗争中に押収された拳銃は42丁に上る。沖縄全体を震撼させたこの抗争を機に、暴力団対策法(暴対法)が制定された。

電話1本、1000万円

暴力団から押収されたピストル=1990年12月

「なぜ暴力団という組織が存在できるのか」。次々と起こる抗争事件を追い掛けるうち、そんな疑問が膨れ上がっていった。答えの糸口を探すため、当事者に話を聞こうと思った。暴対法の施行後、暴力団組事務所や幹部の自宅などを訪ね歩く取材を試みた。

那覇市真嘉比に隠れアジトがあると聞いて足を運んだ。組織の看板もなく、木造かわらぶきの古い住宅が建っている。外階段から2階に上がって戸をたたくと、組員が部屋の中に通してくれた。当時、組事務所撤去訴訟が相次いで提起されていた。このため組織は新たな拠点を秘密裏に確保していた。

6畳ほどの畳間の中央には黒電話が置かれ、電話番の組員1人だけがいた。「組長から電話で指示が来れば、ポケットベルで皆に伝える。組の者はここに近寄らない」と話す。取り締まりが厳しくなるほど、組織は姿を消し去りながらも存在を続けようと模索していた。

「俺たちを利用するかたぎの人間(一般市民)がいるから、こうして生きていける」。自宅の広々とした応接間で話を聞いた幹部は、こう断言した。どのように資金を入手しているのかを尋ねると、一つの事例を明かしてくれた。

数千万円の売り上げを回収できない業者に助けを求められた。支払わない相手に電話を掛け、自身の暴力団組織と名前を告げて穏やかな口調で返済を求めたという。すると先方はすぐに全額を入金してきた。この幹部は電話一本で1千万円を超える謝礼を受け取った。市民が彼らを暴力装置として利用し、恐れを抱き続ければ暴力団は決してなくならないと感じた。

「絶対に許せない」

県民の怒りが暴力団を包囲。パレード参加者は3代目旭琉会会長宅前で解散勧告を読み上げた=1990年12月、那覇市内

対立組員を射殺して服役していた組員の妻の所在も分かった。幼い子どもを抱えていた。暮らしを支えるため、母親と妹と一緒に那覇市内のスナックを切り盛りしていた。

店を訪ねて名刺を差し出すと、妻は険しい表情で私を睨みつけ「取材なら帰ってちょうだい」と外へと追い返した。それ以来、店には客として足を運び、事件のことは一切口にしなかった。通いだして1年ほどしたある日、カウンター越しに、妻が事件について語り始めた。

抗争で刑務所に送られた組員の家族は通常、組織が金銭面で生活を支援する。しかし妻はその申し出を拒絶していた。「私は組織とは一切関係ないから」とつぶやいた。夫が対立組織の組員に銃口を向けるために家を出た日のことを思い出すと、怒りを噛みしめながら、こう言い放った。「あの日、夫は私に何も言わずに出て行った。それが絶対に許せない」。抗争は組員の家族をも悲しませ、苦しみを強いていた。

本土から那覇港に入った暴力団警備応援部隊=1990年11月26日

暴力団総長が競売妨害をしているとの情報を得たので取材を始めた。競売で落札された建物に不当に組員を住まわせ、物件を落札した不動産業者に法外な立ち退き料を要求していた。

裏付け取材をした後、総長の自宅を訪ねて本人に直接尋ねた。「事実無根だ」と総長はきっぱりと否定した。私たちは競売妨害の事実を確認していたので、総長の言い分を盛り込んだ上で「暴力団総長が競売妨害の疑い」と題して記事にした。

記事が掲載された後、総長は弁護士を立てて名誉棄損での訴訟提起の意思を私に伝えてきた。総長から依頼された九州在住の弁護士は右翼団体と親交があった。弁護士は電話口で「この記事について、私は総長に代わってあなたと刺し違える覚悟で弁護活動をする」と凄んできた。

その後、那覇地裁は沖縄県警に競売妨害罪で総長を刑事告発し、告発を受理した県警は総長を逮捕した。私たちの取材に身の潔白を主張していたはずの総長は、裁判では一転して起訴事実を全面的に認め、有罪判決を受けた。

「勝者」の独白

2011年11月、抗争から分裂したままだった二つの大きな組織が一つに統合された。新たな組織の会長に就任したのが組織を離脱して抗争のきっかけをつくった一方の組織の代表だった。抗争から21年後、抗争を引き起こした張本人が組織の頂点に立つことになった。

私はどうしてもこの会長に話を聞きたいと思った。あの抗争とはいったい何だったのか。関わった記者の1人として、本人に直接問い掛けたかった。取材を申し入れてから1カ月後、先方から取材に応じるとの返事が届く。

11年12月31日、私たちは組織が所有する北中城村の建物の一室で会長と向き合った。私は尋ねた。

「あなたの脱退がきっかけとなり、組織は分裂し、激しい抗争につながった。そして21年後の今、組織は一つになり、あなたは会長に就任した。つまり抗争の勝者はあなたということになるのか」

彼は少し考えた後、静かに話し始めた。「そういう言い方をする人がいるのは分かっている。ボタンの掛け違いによって分裂してしまった。私たちはあまりにも失うものが多すぎた」。物憂げな表情が物語っていた。勝者など存在していないことを。

沖縄の抗争によって暴対法が施行され、その後に暴力団排除条例も施行されるなど、暴力団組織への取り締まりは年々強化されている。沖縄の暴力団組員の数は抗争時に千人を超えていたが、今では300人ほどで3分の1まで減少している。会長も昨年7月、73歳でこの世を去った。組織は間違いなく弱体化している。

一本化に向けて盃を交わす会合に向かう羽織はかま姿の暴力団幹部らを金属探知機などでチェックする県警捜査員ら=2011年11月、沖縄県北谷町の幹部自宅

「本来は任侠(にんきょう)の集団だ。しかし質が悪くなってしまった」。26年前、北谷町に自宅を構える幹部がそうつぶやいていた。任侠とは「弱きを助け、強きをくじく」と言い、仁義を重んじ、困ったり苦しんだりしている人を助けるために、体を張る自己犠牲的精神のことを指す。

那覇地裁は今年9月、暴力団組員が関与する特殊詐欺集団に現金をだまし取られた被害者の損害賠償請求訴訟の判決で、暴力団の会長代行に使用者責任を認めて支払いを命じた。一般市民から現金をだまし取る卑劣な犯罪に手を染める組織に、任侠を名乗る資格はない。

今月22日、無関係に殺された高校生の30回目の命日が巡ってくる。生きていれば49歳になっていたはずだ。写真に収まる短髪で優しそうな表情のまま正面を見据える彼の姿を忘れることはない。そして底冷えのしたあの日の夕方、射殺現場に漂っていた乾いた空気のにおいも。


松永 勝利(まつなが・かつとし) 1965年東京生まれ。社会部長、政治部長、編集局次長などを歴任。主な取材は「検証・老人デイケアキャンペーン」(新聞協会賞)、「県平和祈念資料館展示改ざん問題」(日本ジャーナリスト会議JCJ賞)。趣味はアナログレコードの収集と鑑賞。定年後にレコードをかける珈琲店主になるのが夢。新聞記者は入店お断りにする予定。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。