女性の悲痛は人ごとなのか…2つの米兵逃走事件が問う「日米地位協定」<沖縄発>


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written by 松元 剛

 

 地域に根差す地方紙の記者は取材先との距離が近い。記者たちも取材相手を含む地域社会で暮らし、濃いコミュニティーの中で時には書いた記事への厳しい批判が寄せられる。だが、地域社会と共に歩む記者たちは、逃げも隠れもできない。そんな覚悟を抱きながら、日々の取材に駆け巡る。

 基地の島・OKINAWAの不条理に向き合う琉球新報の記者たちも県民と喜怒哀楽を分かち合い、ニュースを追っている。時には見ず知らずの読者が意を決し、沖縄の新聞への信頼に基づいて重い情報を寄せてくれることもある。

 「こんなことが許されていいのですか」。1993年7月20日、翌日から小中高校が夏休み入りする前日の夕刻、社会部に1本の電話が入った。匿名の男性は、嘉手納基地内で日本人女性がレイプされる事件が起きたと告げ、さらに基地内で拘束されていた容疑者の米兵の行方が分からなくなっている―との情報だった。

 

「君たちは記事にしろ」

 入社5年目の同期で、警察担当だった松永勝利(現読者事業局特任局長)がたまたま本社にいて電話を取った。私にその内容を伝えてきた松永は「激しい怒りを懸命に鎮めながら話してくれた感じだった。被害者の恋人かきょうだいではないか。真実味がある話だ」と印象を語った。

 松永はすぐに県警刑事部の幹部に当たった。険しい表情を浮かべたその幹部は「米軍との関係で詳しい話はできない。これ以上聞くな」と言って話を遮った後、部屋を出ようとする松永を呼び止め、「私からは何も言えないが、君たちは何としても記事にしろ」と耳打ちした。県警として事実を認めるわけにはいかないものの、沖縄の新聞の意地を見せ、米軍側のずさんな対応を報じてほしいという思いをにじませた。

 司法担当として裏付けに走った私が「強姦事件の容疑者の米兵が逃走し、起訴できないそうじゃないですか」と告げた那覇地検の次席検事は、ついに来たかという表情を浮かべて一瞬押し黙り、いらだちを見せながら事実関係を認めた。

 

米軍嘉手納基地

自由すぎる容疑者

 強姦事件は2カ月前に発生。容疑者の米兵は、知人の女性に「基地の中を案内してあげる」と言って嘉手納基地内に車で招き入れた。車を暗がりに止めると、突然女性を襲った。被害者はゲートを出たその足で沖縄署に駆け込み、勇気を奮って強姦罪で告訴し、空軍の憲兵隊がすぐに容疑者の身柄を確保した。しかし、容疑者への監視はあまりに緩く、基地外への禁足が科されただけで基地内をほぼ自由に身動きできた。そして、米兵は姿をくらました。

 「まるで米軍占領下の無法状態に等しい」という怒りを抱きながら、独自取材で裏付けを固め、翌日朝刊の社会面トップで特報した。続報でも独自ダネを続けざまに報じた。以下がその内容である。

 (1)凶悪犯である強姦事件の容疑者は自室で過ごし、ほぼ自由に基地内を動き回っていた(2)容疑者は、沖縄県内の旅行会社の嘉手納基地内支店でグアム経由サンフランシスコ行きの航空便の正規チケットを購入していた(3)容疑者が、所属部隊の司令官が休暇取得を認める離隊許可書を偽造していた―。

 基地外の民間地で犯罪を犯して拘束された米兵は、身分証明証(ID)に日本の法律に抵触し、容疑が掛けられていることを示す刻印が押されるが、容疑者は刻印のないIDも偽造して基地のゲートをやすやすとくぐり抜け、那覇空港の出入国管理官の審査もパスし、機上の人になっていた。それもスクープになった。

 

繰り返される逃走…報道が不足なのか

 米軍のずさんな身柄管理が際立つ記事を報じるたび、私の胸には、報道の力不足を悔いる思いが湧いてきた。わずか1年半前の1992年1月にも凶悪犯の容疑者の米兵2人が本国に逃げ帰る事件があったからだ。

 強盗致傷事件は、嘉手納基地の門前町である沖縄市のゲート通りのバーで起きた。77歳になる男性店主が、ほかの客が帰った途端に強盗にひょう変した3人組の海兵隊員に襲われた。2メートル近い屈強な彼らは店主を抱え上げ、分厚い木のカウンターに投げ付け、大けがを負わせた。1人は基地外の民間地で沖縄署に緊急逮捕されたが、残る2人は基地内で、憲兵隊に身柄を確保された。

 しかし、日米地位協定を盾に起訴前の身柄引き渡しは拒まれた。沖縄署に護送される形で任意の事情聴取が続いている間に、基地内で禁足処分が科されただけだった容疑者2人は示し合わせて姿を消した。軍用機で米本国に逃げ帰っていたことが後に分かる。

 琉球新報が逃走をスクープし、現場を抱える沖縄市議会や県議会が抗議決議し、日米地位協定の見直しを求めるなど、波紋を広げた。米軍側は沖縄県警や那覇地検に平謝りし、基地外で事件を起こした米兵容疑者の身柄拘束を厳格にすると約束していた。

 しかし、約束は守られず、1年半後に同じような逃走事件が起きた。

 基地内に逃げ込んだ米兵の身柄管理のずさんさ、何よりもそれを許している日米地位協定の弊害を追及する我々の報道が弱く、米軍側は形ばかりの反省と改善を取り繕っただけだったのではないかという反省の念が胸を突いた。

 

米軍嘉手納基地へとつながるコザ・ゲート通り周辺(2020年)

被害者の職場近くに来た人物

 二つの事件で米本国に逃げた3人の容疑者は本国でつかまり、沖縄に送り返された。だが、93年の強姦事件の容疑者は、日本の法律では裁かれず、軍法会議で「脱走」の罪に問われただけだった。なぜか。本国を逃げ回っている間に、被害者の女性が告訴を取り下げてしまったからだ。その経緯を取材すると、日本側の関係者の口はとても重く、事実関係が分かるまで1年近くを要した。

 ことの真相はこうだった。在沖米軍の法務関係者が被害者の職場近くに現れ、示談に応じるよう依頼する非常識極まる対応を重ねていたのである。事件直後に警察署に駆け込んで告訴するほど、被害感情が強かった被害者は、米軍側から「セカンドレイプ」と言っていい陰湿な圧力にさらされ、容疑者が逃げ回っている間に告訴を取り下げ、半ば泣き寝入りしていたのである。

 被害者や家族は、はらわたが煮えくりかえるほどの怒り、そして失望感を抱いたことだろう。

 二つの米兵逃走事件を詳しく書いた理由がある。それは在京大手メディアの報じ方が弱かったからだ。共同通信を含め報じたのは新聞3社の西部版だけで、東京版の新聞には掲載されなかった。逃げた米兵が本国で捕まって沖縄に送り返されてから、初めて報じた社もいくつかあった。

 なぜ、凶悪事件の容疑者の米兵が基地内から行方知れずになり、起訴できない異常事態が全国ニュースにならないのだろう―という率直な疑問が湧いた。

 

報道の「温度差」を超えて

 1995年の少女乱暴事件の後、不条理を帯びた沖縄の基地問題が全国ニュースとしての価値を増したため、米兵事件の扱いも段違いに大きくなった。凶悪事件の米兵が逃走したニュースが報じられないようなことはもうないだろう。

 当時の空気を今思い返してみると、戦後50年を前にして、日米安保の負担が沖縄に偏在する状況が当たり前となり、圧倒的に米側優位の日米関係の延長線で生じる事件の深層、問題の本質をすくい上げる大手メディアの感性が鈍っていたという感は否めない。

 95年の少女乱暴事件を起点に、沖縄社会で基地過重負担への怒りと、党派を超えた日米地位協定の見直し要求が一気に高まったが、本質的な改定は実現せず、日米の力関係は今もほとんど変わらない。

 基地問題に関する本土と沖縄の報道機関の感度の違いについて、私は「温度差」という言葉で片付けてはならないと思っている。「温度差」というさめた言葉に単純化されることで、沖縄に押し寄せる重い負担を「自分ごと」と受け止めず、大多数の国民が「人ごと」として見て見ぬふりをする潜在意識をつくりだす遠因になっていまいかと考えるからだ。

 そうではあっても、あの2件の米兵逃走事件を思い起こすと、今でも苦い思いが湧く。レイプ被害に遭った上、泣き寝入りを強いられた被害者と家族、悲痛な情報を琉球新報に寄せてくれた男性は、女性が被害者となる米兵事件が今も続発していることにどんな思いを抱いているだろうか。

 


松元 剛(まつもと・つよし) 編集局長

1965年生まれ、那覇市出身。1989年入社。社会部警察・司法担当、2度の政経部基地担当などを経て2020年6月から現職。基地問題がライフワーク。趣味は映画鑑賞、休日の草野球。劇場で年に映画30本を見る目標はいまだに達成できず。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。