フランス人の残した正殿写真の資料的価値は…紹介の後田多准教授が寄稿<首里城再建を考える・主体性回復への道>


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ルヴェルトガが撮影した首里城正殿と御庭の写真。大龍柱は正面を向いている。1877(明治10)年5月16日撮影とされる(筆者提供)

 琉球民族独立総合研究学会(11月14日)で紹介したフランス人のジュール・ルヴェルトガ(Jules Revertegat)が、1877(光緒3、明治10)年に琉球国で撮影した写真を取りあげる。学会では首里城正殿の大龍柱の向きを巡る議論だったが、ここでは写真と図版の背景や資料などを巡る点も整理したい。

 王府幹部と会談

 ルヴェルトガ写真の貴重さの一つは、国王が居住する王城時の正殿の姿を伝える点にある。正殿写真として、現在確認できる最も古いものだ。撮影年も資料で特定できる。また、再建に向け関心事となっている正殿大龍柱は、正面を向いており論議にも一石を投じる。写真だけでも意義は大きいが、写真・図版・紀行文や関連資料がセットで残ったことで、琉球国末期の一級資料となる。

 写真を残したルヴェルトガ(海軍中尉、少尉とする文献もある。昇任時が不明なので中尉とする)は、フランスの外交業務を担ったラクロシュトリ号(アンリ・リウニエ艦長)の一員として来琉している。日本語通訳を務めていた。ラクロシュトリ号は1875年9月にフランスを出港し、中国、日本、韓国、ロシア東部を巡る極東一周航海を行っている。琉球・那覇港には1877年5月13日、寄港し18日まで滞在した。リウニエ艦長(大佐)やルヴェルトガらは5月15日、王城に入り王府幹部らと会談、城内撮影を許可され16日に正殿などを撮影した。

 現在に伝わる正殿写真は、1877年5月16日に撮影されたものだ。リウニエ艦長の子孫エルヴェ・ベルナール氏が写真を所蔵し、フランス国立海軍博物館友の会発行の「NEPTUNIA」260号(2010年)で発表した論文で紹介したことで、存在が確認された。撮影などを記すリウニエ艦長資料も紹介する。この論文はフランスの琉球史研究者のパトリック・ベイユヴェール氏が価値を見出(みいだ)し、引用活用している。

 ルヴェルトガは琉球訪問の様子を「琉球諸島紀行」として、「Le Tour du Monde」(1882年発行)に発表している。「琉球諸島紀行」は、山口栄鉄氏や森田孟進氏が著書や論文で紹介し沖縄でも知られてきた。正殿図版などは、ラブ・オーシュリ/上原正稔編、照屋善彦監修『青い目が見た「大琉球」』(ニライ社、1987年)にも掲載されている。

 資料的価値を確認

 正殿図版の存在や写真をもとにデザインしたことは知られていたが、沖縄・日本側の研究では資料的価値を見出(みいだ)せていなかったのである。私の仕事は、図版と写真、文献、東アジア情勢や琉球国の位置を踏まえて資料的価値や意義を確認し提示することにあった。

 ルヴェルトガらが、特別に撮影を許された理由を理解するためには、当時の琉球の状況を知る必要がある。一つは琉球を取り巻く東アジアの情勢だ。

 19世紀の東アジアでは清国を中心とした冊封体制が形成されており、海上交通の要衝・琉球には19世紀初頭から欧米諸国の船が来航している。イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、ロシアなどが接触を図っていた。冊封体制で朝鮮に次ぐ位置だった琉球国は、欧米諸国ともアメリカ、フランス、オランダの3カ国と「修好条約」を結んでいた。つまり、琉球国は国際的主体として存在していた。

 もう一つは日本との関係である。日本では1868年に王政復古で天皇中心の新政府が成立し、その新政府が東アジア秩序再編へ乗り出す。琉球に対しては1872年、国王尚泰を琉球藩王に封じた。教科書などで、「琉球藩設置」とされている出来事だ。ただ、琉球からすれば、依然として琉球国だった。台湾出兵の処理を終えた日本は、琉球に琉清関係断絶命令(1875年)、警察・司法権移管命令(1876年)を出し、国内化・併合を進める。琉球は抵抗し1876年12月には幸地朝常らを清国へ派遣したほか、警察・司法権の行使を続けていた。

 仏は特別な国

 ルヴェルトガらの来琉時、琉球は王権の中核である外交権と警察・司法権を巡り、日本とせめぎあっていた。琉球とフランスは「修好条約」を締結しており、さらにラクロシュトリ号来琉の翌年には、王府幹部の与那原良傑と富川盛圭(置県後、清国に亡命した)が東京のフランス公使館に琉球救援を求める書簡を提出するなど、公使館への出入りを示す資料もある。つまり、琉球にとってフランスは特別な国の一つだった。

 この時期で、しかもフランスからの訪問者だからこそ、正殿の撮影を許されたと考えたい。そして、写真には正面を向く大龍柱が写っていた。正殿大龍柱の相対向き説は、これまで置県(1879年)以降に首里城に駐屯した日本兵が向きを正面に変えたとしてきた。しかし、この説明は成立しないことが確認された。

 ルヴェルトガ写真はその背景にまで視野を広げると、正殿の姿だけでなく、国家滅亡前夜の激動の中にあった琉球の政治や外交の情報も提供し、重要性はさらに広がる。まさに、現在では失われた琉球国の末期の姿を伝える歴史的1枚だ。さまざまな巡り合わせが残してくれた貴重な資料だと考えている。

後田多 敦

 後田多敦(しいただ・あつし)

 沖縄県生まれ。神奈川大学准教授。著書に『救国と真世―琉球・沖縄・海邦の史志』『「海邦小国」をめざして―「史軸」批評による沖縄「現在史」』『琉球救国運動―抗日の思想と行動』ほかがある。