日展(日本美術展覧会)会友で書道界の重鎮、書家の茅原南龍(ちはらなんりゅう)さん。石垣市の消防署を27歳で辞め、書に人生を懸けると決めた。第35回日展で特選に輝き、31回の入選を重ねる。主宰する茅原書藝會(しょげいかい)は県内のみならず九州から東北まで広がり、会員は6千人を超える。後進の育成に力を注ぎ「耕す人」と評される。
書道を始めて60年。「この道は深遠にして幻想の世界」という語り口に情熱がほとばしる。座右の銘は「勤勉たれ」。書の道に進んだ後、毎週土曜に「千字文」を完成させる練習を5年間、自身に課した。一文字でも間違えると最初から書き直す。当初は15時間かかったが、5年後には5時間で仕上げられるようになり、理想の線が生まれた。
書の心得を「小さな努力と忍耐の積み重ねが大事」と説く。自分を厳しく律する人でもある。
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毎月1回の大型インタビュー「ゆくい語り」の33回目。書に夢をかけた茅原南龍さんを訪ねた。
信じた道に「万歳」できる人に
―書を始めたいきさつを聞かせてください。
「21歳のころ、石垣市の消防署に入り、署内の書道サークルで書を学び始めた。東京書道教育会の通信教育を受けるために先輩と八重山に支部をつくり、数人の愛好者から本格的な支部を発足させた。元々、毛筆に興味を持っていた。小学5年生のころ、先生から石垣小の中庭にある赤瓦とガジュマルを描くよう勧められた。その絵が八重山群島知事賞を受賞したことがうれしくて、芸術家の道を歩むきっかけになった。消防署で始めた書道にのめり込んだ。周囲の反対を押し切り、消防署を辞めて27歳で書家として独立した。石垣市内で書道教室を開き、那覇市に移り茅原書藝會(しょげいかい)を設立した」
屈辱的な言葉ばねに 鍛錬重ね理想の線会得
―情熱を支える源泉はどこから湧いてくるのでしょうか。
「消防署員の頃、先輩から浴びせられた一言だった。他の署員の悪口を言う先輩を制止したら『君のような若造が俺に意見するのか。うじ虫くそ野郎が』と、生まれて初めて最大の屈辱的な言葉を受けた。かっとなって取っ組み合いになった。その時、絶対に先輩をしのいでやると決め、周囲に公言した」
―それから何を。
「先輩も書道をしていたから上回ろうと。年齢は二回り上の人。若さを強みにして僕は毎日、4時間を書の練習に費やし、先輩よりも先に五段に合格した。その後、沖展で初めて奨励賞を受賞した時に、先輩も祝いの席に来てくれた。わだかまりはなかった。若かりし頃の屈辱的な体験があったから、今日の日があると思ったからだ。屈辱が僕にとっての最大のばね。『最高の勤勉たれ』を教わった経験だった」
―週に1度、5年間にわたり「千字文」を書く訓練を課したと聞きました。
「千字文は、四字熟語が250種類連なった手本。1文字1文字書くごとに、異なる字形や内容の偉大さを発見し、感謝し、触発された。全紙の用紙に1文字ごとのマスを鉛筆で引き、下書きを始め、それから清書をする。1文字間違えるとやり直す。5年間書き続けたある日、仕上がりが見事で自分が書いたのかと仰天するような瞬間が訪れた。感動し万歳した。見違えるほどの線が生まれた。(課題を)乗り越えた訳です」
―書の魅力を聞かせてください。
「書けば書くほど書きたくなる。見れば見るほど見たくなる。聴けば聴くほどのめり込む。この道は深遠にして幻想の世界です。四千年余の尊い歴史文化はもとより、先人たちの苦闘と艱難辛苦(かんなんしんく)の結晶が『書道』と言われるゆえんではないか」
上達は「聴く力」から 全国に通用する人材を
―「聴くこと」の大切さとは。
「私自身、書業60年にしてようやく聴くことができるようになった。(師匠など他者から)聴く力を身に付けると、勘所が分かるようになる。聴く力は理解・解読する力、見る力に発展し、行動する力へと進化する。書の上達も成功も聴く力に源泉があると信じている。他者の経験談を読むよりも、経験談を聴く方が理解度は増す。素直でないと聴く力は育たない。僕が弟子たちによく言うのは『健やかに素直で賢い人に』という言葉です。聴く力は全ての分野に通じ、人生の源泉であり成功の秘訣(ひけつ)だと考えている。政治、経済などの分野にも共通するのではないでしょうか」
―手本通り書けるようになって「できた」と思うのは「錯覚」であり、「創作」ではない、と指摘しています。「創作」とは。
「過去には僕も手本通りに書いているのに、自分が『創作』をしているとうぬぼれ錯覚していた。『創作』は漢詩を読んで自分で解釈して咀嚼(そしゃく)し、(膨大な文字の種類から)行書か草書が合うのかを選び出し、それらを構成して作品を創り上げる行為です。鍛練を重ねていると(適した)文字が自然と浮かんでくる。弟子には『創作』を勧めている。全国に通用する弟子を育てる。だから日展を舞台に据えている」
―全国の大会に積極的に出展しています。
「僕が『書の甲子園』と読んでいる『成田山全国競書大会』で、過去35年間に日本代表として中国に派遣された子どものうち21人は茅原書藝會の会員だ。子どもたちに成田山への挑戦を後押ししている」
―後進へ贈る言葉を。
「師匠を探すことが肝要ですね。僕は神戸の廣津雲仙先生を師と仰ぎ、1982年から7年ほど先生の下で学んだ。当時、沖縄から県外へ渡る人はほとんどいなかった。廣津先生が亡くなった後も、『墨滴会』に所属して日展に挑戦してきた。2010年に独立し、沖縄から全国の展覧会へ出展する窓口となる『鵬成会』を立ち上げた。人生行路の船長すなわち羅針盤、それは人生の師匠を抱くことだ。また、礼儀作法を大切にしてほしい。書くことは礼儀作法、所作の表象です」
「稽古場に掲げた書作『畔不盡(耕不尽)』は耕せども尽きず。心を耕すことは限りがないという意味だ。人間の心も常に耕さないと荒れる。私自身、これからも言葉の力を信じ、『勤勉たれ』の人生行路をこぎ続け、信じた道の仕事に人生に万歳できる人でありたいですね」
(聞き手 文化部長・高江洲洋子)
ちはら・なんりゅう
1939年、石垣市新川生まれ。書家、茅原書藝會主宰。原田観峰、廣津雲仙(日展理事)、村上三島(日本芸術院会員)を師と仰ぐ。2003年に日展特選受賞。09年に石垣市栄誉市民、11年に琉球新報賞、12年に文化庁長官表彰、15年に県功労者表彰を受賞する。18年に旭日双光章受章。19年に傘寿を記念し、愛弟子代表による2000人展を開催する。日展会友、読売書法展理事、沖展審査員。沖縄タイムス芸術選賞選考委員。国立劇場おきなわ「天皇御製歌碑」、県知事応接室屏風など多数を揮毫(きごう)している。
取材を終えて
言葉を紡ぐ表現者
取材が終わった頃、「ちょっと待ってね、今作品を書いているから」と、茅原先生が筆を片手に楽しげな表情で言う。間があって、見せてくれたのは書作。その日の朝、浮かんだ言葉を詩にして「調和体」で表現した。沖縄の花々と風の吹く様子を描いた詩。伸びやかな線と温かい書風が言葉を引き立てる。
茅原先生は漢字・かな交じりの詩文を作品にする「調和体」を、いち早く指導に取り入れた。自作の詩を「調和体」で表した作品もある。「平等は時間だけ 最大限に活(い)かせ 自己の持ち味」「自分さがし 少年期に 夢 目標 勇気 道の人敬い 仰げ」。書の巨匠は言葉を紡ぐ表現者だと敬服した。書の魅力に触れる機会になった。
(琉球新報 2020年12月7日掲載)