コザ騒動で高等弁務官を現場へ 主和津さん、住民の怒り目の当たりに「つらかった」


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ランパート高等弁務官(当時)をコザ騒動の現場に案内したことを証言する主和津ジミーさん=4日、北谷町

 「ああいうことはない方がいい。帰っても全く眠れなかった」。ランパート高等弁務官を車でコザ騒動の現場に案内した、主和津(シュワルツ)ジミーさん(80)は振り返る。「現場は危険だが(高等弁務官は)責任感の強い人だったから、あれだけの大きな事件はすぐに見るべきだと考えたのだろう」と推し量る。幼い頃に米軍の事故で父親を亡くし、米軍の助けで貧困から抜け出した主和津さんは、住民の反米感情が爆発したコザ騒動を振り返り複雑な心境を語る。

(宮城隆尋)

 主和津さんは1948年8月、伊江島の波止場で起こった米軍爆弾処理船(LCT)爆発事件で、父の幸地良一さん(享年35)を亡くした。米軍の通訳をしていた良一さんは、伊江島出身者の遺骨を遺族に返すため港に来ていたという。

 主和津さんは7歳。きょうだい4人を、32歳だった母サダさんは女手一つで育てた。主和津さんも靴磨きなどをして家計を助けた。「食べるものもなく苦労していた時、米軍の父の上司だった人たちが何度か訪ねてきた。そして嘉手納基地に引き取られることになった」と語る。基地内でしばらく暮らし、米国の家庭に養子として引き取られた。

 ベトナム戦争も経験し、67年に「沖縄と米国に恩返しがしたい」と沖縄に戻った。高等弁務官の第一等特技官となり、アンガー氏、ランパート氏のそばで働いた。両氏と共に郷里の母を訪ねたこともある。

 ランパート氏の指示で米国を紹介する映像資料を図書館で探し、琉球政府の屋良朝苗主席に送ったこともある。「沖縄の米軍だけが米国ではない、と言いたかったのではないか」と語る。離島や過疎地の視察にも同行した。

 主和津さんはコザ騒動について「とても苦しい。私は米国人だがウチナーンチュだ。悔しい思いもあるが(騒動が起きるのは)仕方がないとも思った。弁務官も同じ気持ちだったのではないか。予想外のことが起き、とても残念がっている様子だった」と振り返る。

 ただ、ランパート氏は騒動直後に「こういうやり方は『ジャングルのおきて』である」「脅威が完全になくならない限り(毒ガス撤去の)作業開始を承認しない」などと声明を出し、住民の反発を招いた。

 復帰を前にした沖縄では米軍の毒ガス移送も控え、連日のようにデモ行進があった。主和津さんは「デモを見る度につらかった」という。主和津さんは現在、施設を訪ねてお菓子を配るなど子どもたちのために活動している。「幼い頃いろんな人に助けられた恩は忘れない。母は貧しい時にも『人のために行動できる人になりなさい』と言っていた。子どもを支える活動を今後も続けたい」と話す。

 主和津さんは13日午後1時から、那覇市泉崎の琉球新報ホールで開かれるシンポジウム「コザ騒動50年を問う」に登壇する。