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石川高校(1)【前編】戦火生き延び、学ぶ喜び 沖縄ツーリスト創業の宮里政欣さん<セピア色の春ー高校人国記①>


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 石川高校の一期生、宮里政欣(92)=沖縄ツーリスト相談役=は75年前の通学路を懐かしむ。石川の中心地から高校がある伊波集落へ至る登り坂である。「高校への坂道を上るのは大変だった」

 沖縄本島に上陸した米軍と日本軍の戦闘が続いていた1945年5月、米軍に収容された子どもたちが学ぶ「石川学園」(現在のうるま市立城前小学校)が戦後沖縄の出発地・石川収容地区に開校する。7月には石川高校の前身となる中等部が併設され、旧制中学校や高等女学校の生徒が入学した。宮里はその一人だった。

 今帰仁村越地で生まれ、県立三中で学んでいた宮里は沖縄戦で戦場に動員された。敗戦後、叔父のつてで石川のホテルに働いていた時、三中の教頭だった比嘉秀平から高校創設の話を聞く。「比嘉先生が『やがて高校ができる。準備しておきなさい』と教えてくれた」と宮里。比嘉は52年に琉球政府の初代行政主席となる。

 「校舎は米軍のコンセット兵舎で、教科書はガリ版刷り。制服はなく、生徒は米軍のHBTを着け、軍靴をはいていた」と懐かしむ。戦火を生き延び、戦後沖縄の政治・行政の出発地となった高校で学んだ生徒たちは貧しさの中で学ぶ喜びを共有した。

 卒業後、宮里は沖縄外語学校に進み、卒業後は米国人が経営するタクシー会社などで働く。その後、外語学校で出会った東良恒の誘いで旅行業を歩み、58年に沖縄ツーリストの設立に参画した。

石川高校

 石川高校は男女共学だったが「女生徒の姿をあまり見掛けることはなかった」と宮里は語るが、一期生46人のうち32人は女性だった。その中に県なぎなた連盟の会長を務める長濱文子(91)がいた。

 那覇で生まれ、県立第二高等女学校在学中、なぎなたに出合った。上級生は「白梅学徒隊」に動員され戦場をさまよい、自身も陣地構築に駆り出された。戦後、夫の長濱弘と長濱企業グループを築いた。

 自叙伝で長濱は「戦後、女学校は新制高校に移管されることになりましたが、その新制高校を私が卒業すると、勉学に大切な時期が戦争中であったのであまり勉強ができなかったろうと、父はお茶やお花を学ばせてくれました」と記す。 

 元嘉手納町長の宮城篤実(84)は10期生。北谷村(現嘉手納町)嘉手納で生まれ、沖縄戦時に疎開先の羽地村(現名護市)で米軍に捕らわれた。沖縄師範学校男子部に通っていた兄は鉄血勤皇師範隊に動員され、糸満市摩文仁で亡くなった。戦後、石川市で暮らし、石川高校に入学した。

 バスケットボールに励み、政治家の講演会で胸をときめかす生徒だった。「安里積千代さん、瀬長亀次郎さん、仲宗根源和さんの演説を聴き、感動した。特に瀬長さん。触発され、後に政治を意識するきっかけとなった」と振り返る。

 卒業後、名護の私立英語学校を経て早稲田大学へ。学生運動にのめり込み、砂川闘争を闘った。「逮捕され、沖縄に戻されたら二度と大学で学べなくなる」という危機感を常に抱えていた。帰郷後、古謝得善嘉手納村長との出会いが契機となり行政、政治の道を歩む。

コンセット大講堂をバックにした6期生の卒業記念写真=1951年3月(石川高校創立50年記念誌より)

 相次ぐ米軍事故に対する抗議や交渉を重ねていた現職時代、語学力の大切さを痛感した。98年、町立嘉手納外語塾を設けたのもそのためだ。宮城は今もラジオ講座で英語の勉強を続けている。「これが毎日の楽しみだ」という。

 「私は静かで目立たない生徒だった」と回想する宮城は2期後輩の存在に注目していた。「上原直彦さん、やんちゃでしたね」

 琉球放送のディレクターで、民謡番組のパーソナリティーを長年務める上原直彦(82)は12期。沖縄の芸能を見つめ続けた放送人。「さんしんの日」を提唱した。「高校時代はやんちゃというより、うーまくー。いろんなことに首を突っ込んだ」

 那覇市山下町の生まれ。沖縄戦で北部の山中をさまよい、金武で米軍に捕らわれ、石川で少年期を過ごした。城前小学校、石川中学校を経て石川高校へ。「学校に『週訓』というのがあって『標準語励行』も目標となった。標準語を使って日本人になろうということだったのだろう」

 それでも自由な校風の中で高校生活を謳歌(おうか)した。生徒会を裏で支える参謀役を任じていた。土地闘争が盛り上がりを見せた時代の中で政治意識も芽生えた。「ストライキをしたり、『高校生の立場から考える土地問題』というパンフレットを作って配ったりした。僕らのアイドルは徳田球一だった」

 57年、石川高校の同級生で、後に埼玉新聞に転じたジャーナリスト近田洋一と共に琉球新報の入社試験を受けた。最終面接で「君たちはアカだそうだね」という池宮城秀意編集局長の問い掛けに上原は「権威に対して常に反発するという姿勢でなければ記者は務まらない」と反論した。池宮城の返事は「合格」。
 基本姿勢は今も同じ。「権力と記者が癒着するのが一番怖いからね」。59年の宮森小ジェット機墜落事故の現場を取材した後、上原は琉球放送で活動する。

 アメリカのデモクラシーに憧れつつ米軍の圧政にあらがった青春時代だった。日本復帰を目指しながらも反ヤマトの意識もあった。「複雑な精神生活を送っていた」と上原は振り返る。

(文中敬称略)
(小那覇安剛)

【後編】石川高校(1)バスケに励み、政治家に胸ときめかす・・・宮城篤実元嘉手納町長