prime

石川高校(1)【後編】バスケに励み、政治家に胸ときめかす・・・宮城篤実元嘉手納町長<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
コンセット大講堂をバックにした6期生の卒業記念写真=1951年3月(石川高校創立50周年記念誌より)

 元嘉手納町長の宮城篤実(84)は10期生。北谷村(現嘉手納町)嘉手納で生まれ、沖縄戦時に疎開先の羽地村(現名護市)で米軍に捕らわれた。沖縄師範学校男子部に通っていた兄は鉄血勤皇師範隊に動員され、糸満市摩文仁で亡くなった。戦後、石川市で暮らし、石川高校に入学した。

 バスケットボールに励み、政治家の講演会で胸をときめかす生徒だった。「安里積千代さん、瀬長亀次郎さん、仲宗根源和さんの演説を聴き、感動した。特に瀬長さん。触発され、後に政治を意識するきっかけとなった」と振り返る。

宮城篤実氏

 卒業後、名護の私立英語学校を経て早稲田大学へ。学生運動にのめり込み、砂川闘争を闘った。「逮捕され、沖縄に戻されたら二度と大学で学べなくなる」という危機感を常に抱えていた。帰郷後、古謝得善嘉手納村長との出会いが契機となり行政、政治の道を歩む。

 相次ぐ米軍事故に対する抗議や交渉を重ねていた現職時代、語学力の大切さを痛感した。98年、町立嘉手納外語塾を設けたのもそのためだ。宮城は今もラジオ講座で英語の勉強を続けている。「これが毎日の楽しみだ」という。

 「私は静かで目立たない生徒だった」と回想する宮城は2期後輩の存在に注目していた。「上原直彦さん、やんちゃでしたね」

上原直彦氏

 琉球放送のディレクターで、民謡番組のパーソナリティーを長年務める上原直彦(82)は12期。沖縄の芸能を見つめ続けた放送人。「さんしんの日」を提唱した。「高校時代はやんちゃというより、うーまくー。いろんなことに首を突っ込んだ」

 那覇市山下町の生まれ。沖縄戦で北部の山中をさまよい、金武で米軍に捕らわれ、石川で少年期を過ごした。城前小学校、石川中学校を経て石川高校へ。「学校に『週訓』というのがあって『標準語励行』も目標となった。標準語を使って日本人になろうということだったのだろう」

 それでも自由な校風の中で高校生活を謳歌(おうか)した。生徒会を裏で支える参謀役を任じていた。土地闘争が盛り上がりを見せた時代の中で政治意識も芽生えた。「ストライキをしたり、『高校生の立場から考える土地問題』というパンフレットを作って配ったりした。僕らのアイドルは徳田球一だった」

 57年、石川高校の同級生で、後に埼玉新聞に転じたジャーナリスト近田洋一と共に琉球新報の入社試験を受けた。最終面接で「君たちはアカだそうだね」という池宮城秀意編集局長の問い掛けに上原は「権威に対して常に反発するという姿勢でなければ記者は務まらない」と反論した。池宮城の返事は「合格」。

 基本姿勢は今も同じ。「権力と記者が癒着するのが一番怖いからね」。59年の宮森小ジェット機墜落事故の現場を取材した後、上原は琉球放送で活動する。
 アメリカのデモクラシーに憧れつつ米軍の圧政にあらがった青春時代だった。日本復帰を目指しながらも反ヤマトの意識もあった。「複雑な精神生活を送っていた」と上原は振り返る。
 (文中敬称略)
 (小那覇安剛)

【前編】石川高校(1)戦火生き延び、学ぶ喜び 沖縄ツーリスト創業の宮里政欣さん