社会

「怖い、戦争だ」ネオンのきらめき一変、怒号と燃える車… 被爆経験、移住した沖縄で見たものは




 燃え上がる炎、黒焦げで逆さまになった車。青年らが怒号を上げていた。

 「怖い。戦争だ」。雛(ひな)世志子(よしこ)さん(89)=沖縄市=はその場に立ちすくんだ。



コザ騒動の当日を振り返る雛世志子さん=2020年12月2日、沖縄市


 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)の胡屋十字路付近は外国人や地元客が行き交い、きらびやかなネオンがまたたく普段の雰囲気から一変した。十字路付近にあった「クラブ四季」で働いていた雛さんは、店の外の光景に目を疑った。

 この日、十字路近くの軍道24号(現国道330号)で、米兵が運転する車が道路横断中の男性をはね、米憲兵隊の事故処理に憤慨した民衆が車を次々と焼き払っていった。この年の9月に糸満町(現糸満市)で米兵が主婦をれき殺し、無罪になった。美里村(現沖縄市)で毒ガス撤去を求める県民大会が12月19日に開かれるなど、米統治下の人権軽視に対する反米感情が高まっていた。

 民衆は外国人の車を制止すると、運転手を引っ張り出し、車をひっくり返していた。「もっとやれ、もっとやれ」。通りで見詰めていた老人たちがはやし立てた。その光景をぼう然と眺めていた雛さんは、やがてその怒りを理解した。

 これまで沖縄の人は日本やアメリカに何をされても忍耐強いと思っていたが、違った。沖縄住民が鬱積(うっせき)した感情を実力行使で示す姿を目の当たりにし、「初めて『沖縄の人たちはすごい』と思った」。



群衆に襲われ炎上する米軍関係者の車=1970年12月20日、コザ市


 大阪で生まれ、その後広島に移住。1945年8月6日、船越町(現広島市安芸区)で被爆した。47年から父の故郷である奄美大島で暮らし、父は約1年後に放射線の影響とされる白血病で死去した。雛さんと母、姉の3人が残された。

 50年、働き口を求めて沖縄に移った。奄美大島出身者などを頼りに、沖縄本島内を転々とした。沖縄で暮らし始めてから、母の体に異変が生じた。歯が抜け、歯槽膿漏(のうろう)に悩まされた。その医療費を払うために多額の借金を抱えた。

 母の死後、火葬すると、右肩の骨は形を残していなかった。原爆投下時、自宅の庭で放射線を浴びたと聞いていた。体調不良が被爆の影響だとは思わなかった。

 10年ほど前、老人クラブの活動で被爆体験を語ったことをきっかけに、沖縄戦も学ぶようになった。戦場となり、その後も基地の負担を背負わされた沖縄。原爆で狂わされた自身の半生。「今なら沖縄の人の気持ちは分かる」。コザ騒動からの50年を振り返ると、戦や軍事に翻弄(ほんろう)される姿が雛さんの中で重なっていた。

母と子どものため、死に物狂いで働いた



1960年代のコザの街


 雛さんは奄美大島から沖縄に移住後、一人娘に恵まれた。家族で働き手は雛さんのみだったが、母の病院通いは続いた。

 母と娘を養うためには借金せざるを得なかった。20代半ば、店に借金をしながら飲み屋で働き始めた。那覇市の外国人向けのクラブでは毎日、50~60杯の酒を飲んだ。飲めないときは口に指を突っ込み、トイレで吐いた後、再び飲み続けた。

 「母と子どもにひもじい思いをさせたらいかん、と必死に働いた」。約4カ月間、働きづめで借金を返した。

 コザ市(現沖縄市)上地で暮らし、いまも米軍嘉手納基地の第2ゲート近くにあるカフェバー「OCEAN(オーシャン)」の前身、Aサインバー「Suzette(スーゼット)」でバーテンダーとして働いた。それだけでは生計を立てられず、昼は基地内でハウスメイドとして働き、なんとか月に約60ドルを稼いだ。それでも当時の一般世帯の平均と比べると、半分にも満たなかった。

 コザ騒動後、米軍は制裁措置として、軍関係者の民間地への立ち入りを禁じる「オフリミッツ」を相次いで発令した。働いていたバーは閉じ、収入が一つ途絶えた。その間も医療費や生活費はかさみ、借金が積み重なった。家計は一層追い詰められた。


米軍嘉手納基地内の外国人宅でハウスメイドとして働いていた頃の雛さん(本人提供)

 基地の存在で収入を得る中で、コザ騒動に複雑な感情を抱いていた。ベトナム戦争が激化すると、バーで泣き崩れる米兵の姿も見てきた。彼らも戦争に巻き込まれた人間の一人だった。一方、これまでの抑圧に抵抗した沖縄の住民の心情も理解できた。「今までの鬱憤(うっぷん)が晴れたのだろう。よくやったね、と思った」

 73歳まで働き、ようやく穏やかな生活が始まった。老人クラブで生い立ちを話したことがきっかけとなり、語り部として被爆体験を語り始めた。それまでは被爆者への差別を恐れ、周囲に語ることを避けてきた。語り部の仲間から沖縄戦の話を聞くうちに、逆に沖縄の苦悩を知った。地上戦に巻き込まれ、多くの犠牲を強いられた沖縄と広島での惨状が重なった。



自身の半生を振り返る雛さん=2020年12月2日、沖縄市


 戦後からコザ騒動に至るまでの25年間、米兵らの事件・事故で住民が犠牲になっても、その多くは裁かれなかった。人権を無視され続けた沖縄の怒りに当然だと思えた。

 コザ騒動から50年が過ぎ、かつて働いた「スーゼット」のソファに腰掛け、半世紀を振り返った雛さんは、こうつぶやいた。「本当に苦しいことばかりで、死に物狂いだったね」



(下地美夏子)


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