ドンドンドン!1970年12月20日未明、当時大学3年生だった大城貞夫さん(70)は友人が部屋の戸を叩く音で目が覚めた。戸を開け、その後に続く友人の一言を今でもはっきり覚えている。
「貞夫、戦争が始まった」
訳も分からぬまま、一眼レフのカメラを担いで走った。中心街の方へ近づくにつれ、いつもとは異なる明かりが町を照らしていた。「ああ、本当に戦争が始まったのか」
アメリカ人の父と日本人の母を持つ自身の生い立ちから「常に両方の気持ちを持っていた」。反米運動が活発な当時、大好きなカメラを手にすることで、どちらにも属さない〝第三者〟という中立の立場に立っていた。
騒動の日、カメラを取り出すとフィルムが入っていないことに気がついた。「お粗末でしょ」。今でも苦い思い出だ。
友人とはぐれ、集団に飲み込まれるように移動すると、島袋三差路付近で憲兵隊の催涙弾を浴びた。「半分は(米側の)味方という気持ちだったので、暴動の犯人の1人にされているような動揺があった」
目をぎゅっと閉じ、鼻は刺激臭でいっぱいになりながら懸命に走った。
転がるように駆け上がった高台で、思い切り空気を吸い込んだ。空が白んでいき、騒動は収束を迎えた。「まるで夢のような夜だった」
あれから50年。修学旅行生などにコザの町を案内するガイドを続けている。その中で「正義の反対には、もう一つの正義がある」と説く。文化の違いや異なる考え方を認める力を持つことが平和につながると強調する。
「コザ騒動は平和の在り方を考えさせられた。互いに意見を言い合えて歩み寄れるような関係が大切なんだろうな」
一方、今は「(若者をはじめとして)民主主義を勝ち取るという気持ちや政治批判をすることがあまりない。のんびりしすぎている」とも感じている。それでも何かのきっかけがあれば、沖縄が動くとも。「沖縄の人は今度は米国だけではなく、日本という国にも槍(やり)を持ってつつくかもしれないな」
(新垣若菜)