「当時21歳だった私は世間知らずで、沖縄の人々の根底にある不満や憤りに気付けなかった」
米軍憲兵(MP)としてコザ騒動の最前線に立っていたブルース・リーバーさん(71)=米フロリダ州在住=は半世紀前の記憶をたぐり寄せ、首をゆっくりと横に振った。
コザの街を怒りで包んだ騒動の原動力は何だったのか。沖縄の人々が不当な境遇を強いられ続けていた事実をリーバーさんが知ったのは、コザ騒動からずっと後になってからだった。
1970年12月20日未明。リーバーさんはこの日、いつもと同じ任務として、嘉手納基地前のゲート通り付近をパトロールしていた。
胡屋十字路付近で発生した米軍人の交通事故処理を無線で受けると、同僚と共に現場へ向かった。
現場に集まり徐々に膨れ上がっていく群衆は、ほぼ全員が男性だった。叫んでいる言葉を理解できなかったが、表情から憤慨しているのは明らかだった。
「興奮した群衆は私たちめがけて石や空き瓶を投げてきた」。やがて制御できないほど、群衆は勢いを増していった。
パン、パン、パン。リーバーさんは群衆を威嚇して分散させるため、空に向けて3発放った。これを機に群衆の怒りはますます膨らんだ。やがて男性たちは次々とMPや外国人の車を放火した。
騒動後、沖縄の歴史や社会情勢を必死に調べた。あの日の群衆の怒りを初めて理解できた。
軍隊では、違法薬物や凶悪事件なども横行していた。そんな組織の体質に嫌気が差し、軍を去って帰国した。
わずか1年半の滞在だったが、今も沖縄には特別な思い入れがあり、時折インターネットで近況を確認している。
「米軍基地に、そして日本政府に長年痛めつけられている沖縄の人々を思うと胸が締め付けられる」
50年前から変わらない状況。そして今後も変わる可能性が低いのでは、と沖縄をおもんぱかる。リーバーさんは願う。「沖縄の人が望む平和が1日も早く訪れてほしい」
(當銘千絵)