何をされても黙るしか…積もった感情が開放された 屋良和子さん


社会
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コザ騒動について語る屋良和子さん=2020年11月30日、沖縄市

 コザ市(現沖縄市)で生まれ育った屋良和子さん(70)は1970年12月20日未明、洋裁学校からの帰り道、胡屋十字路方面から火柱と黒煙が上がる様子を目撃した。

 ただの火事だと思い、胡屋の自宅に帰ったが、現場から約1キロ離れた自宅までガソリンの臭いが漂っていた。

 「何かが爆発したのか」。普通の火事じゃない。違和感を覚えたが、沖縄の人たちが車両を焼き払っているとは予想もしなかった。

 夜が明けると、異様な光景が広がっていた。横転した車両、道路に群がる人々―。コザ署の前には、身柄を拘束されたとみられる青年らがひざまずいていた。報道関係者がシャッターを切ると、「顔は撮るな」と怒号が飛んだ。

コザ騒動の翌朝の光景=1970年12月20日

 軍道24号(現国道330号)沿いにあり、米軍関係者が利用する眼鏡店で働いていた。同僚とは騒動の話で持ちきりだった。住民が怒りを爆発させ、外国人の車だけを焼き払ったこと、死者はいなかったこと―。

 「沖縄の人にも感情はあるよ」。現場にはいなかったが、積もり積もった鬱憤(うっぷん)が晴れた気がした。職場には高揚感が漂っていた。

 物心ついた時から、米軍の事件や事故は絶えなかった。多くの女性や子どもが犠牲になったが、裁きもなく、人権すらない気がした。「何をされても黙るしかない」。やるせない気持ちが募った。

若い頃の屋良和子さん(本人提供)

 先祖の土地は沖縄市の大工廻(だくじゃく)にある。戦前の集落が嘉手納基地などに使用されている地域だ。米軍基地に土地を奪われた屋良さんの家族は、戦後、嘉間良に住んだ。

 ビジネスセンター通り(現在の中央パークアベニュー)近くで両親が営む「センター湯」で、小学校1年生から番台に座った。地元客向けの銭湯だったが、時たま、ホステスの女性を目当てに訪れる米兵もいた。

 米兵は「ネエサン、ステイ?(お姉さん、いるか)」と言い、ドル札をちらつかせた。「ノー、姉さん。ゲットアウト(出て行け)」。子どもながらに追い払った。

 街には米軍相手の仕事で生計を立てる人が多かった。16歳の頃、特定の米兵と親密な関係になる「オンリー」として働く女の子と仲良くなった。奄美出身で同じ年だった。学校に通っていない彼女に教科書を見せ、一緒に映画を見に行った。

騒動が自身に与えた影響を語る屋良和子さん

 コザ騒動をきっかけに「黙るしかなかった」社会への疑問を強く感じるようになった。騒動の翌年、女性でも自立して生きられる技術を身に着けようと上京し、縫製を学んだ。戦後の苦難の中、懸命に働く人たちの姿を間近に見てきた。一方で、これ以上、基地に翻弄(ほんろう)されながら生きていくのは嫌だと思った。

 帰郷後は婦人服店で働いた。2人の娘には学ぶ大切さを説き、留学もさせた。「自由にものを言えること。これが一番大事だよ」。今、しみじみと思うことだ。

(下地美夏子)

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