社会

銃かまえた米兵「ワン、ツー…」 今も続く沖縄人の「わじわじー」 宮島眞光さん




米兵にカメラを取り上げられた現場に立つ宮島眞光さん=2020年12月1日、沖縄市

 1970年12月20日未明にコザ市(現沖縄市)で、米兵が起こした人身事故を発端に、民衆が米人車両などに次々と火を放った「コザ騒動」から50年を迎えた。

 琉球放送の技術職だった宮島眞光さん(74)も騒動に居合わせた1人だ。

 MP(憲兵隊)が現場に詰め寄る民衆を制御する様子を撮影していたとき、カメラを取り上げられた。今も当時と変わらず米軍基地の負担を強いられる現状に「わじわじー(いら立ち)は収まっていない」と語る。



米軍嘉手納基地へとつながるゲート通り周辺=2020年11月、沖縄市


 1946年に沖縄市諸見里に生まれた。幼少期から米軍と隣り合わせの生活があった。米陸軍の司令官が実家の離れに住んでいたこともある。

 高校生になると、米国の情勢に関するニュースにも敏感になった。特にキューバ危機や北ベトナムへの爆撃は印象に残った。ベトナム戦争が本格化すると、隊列を組んだB爆撃機が街の上空を飛んだ。「嘉手納基地は昔から精神的にも経済的にも影響を与え続けている。報道と街と戦争、全てがつながっていた」

 戦場に向かう兵士には哀れみを感じていた。「彼らも命令で動いている。アメリカさんを憎むという感情はなかった」と理解を示す。しかし、米統治下では人権がないがしろにされ、沖縄住民の声は無視され続けた。「軍は武力で相手に脅威を与えたり、破壊したりする集団。軍隊やその政策に怒っていた」と話す。



コザ騒動当時の様子を語る宮島眞光さん

 騒動の当日は夜勤明けだった。騒動のきっかけとなった2件の交通事故現場に遭遇した。徐々に現場に集まる民衆たち。「バンバンバン」。MPの威嚇発砲の音が響いた。「これは大変なことになる」と感じた。急いで自宅に戻り、カメラを担いで現場に戻った。

 炎上する車から火柱が上がり、現場は熱を帯びていた。市民ともみ合うMPに向かってシャッターを切ると、MPはこちらをにらみつけた。宮島さんは4人に手足をつかまれ、車のボンネットに体をたたきつけられた。

 カメラも没収され「放送局の人間だ。返してほしい」と必死に訴えたが、MPは聞き入れずに銃を取り出した。銃口を空に向け「ワン、ツー」とカウントし始める。死の恐怖を感じた。その場を立ち去ざるを得なかった。「とにかく記録したいという思いだったが、銃には勝てなかった」と悔しそうにつぶやいた。



米兵が銃をかまえたときの恐怖を苦笑いで振り返る宮島眞光さん

 あの日の夜のことを「ウチナーンチュの日頃のわじわじーが爆発した」と振り返る。騒動の前日には美里村で開かれた「毒ガスの即時完全撤去を要求する県民大会」にも参加。集会では糸満町(現糸満市)で起きた主婦れき殺事故への抗議の声も上がった。

 日本復帰後も基地は残り、騒動から年たっても米軍の事件や事故は繰り返されている。「沖縄の人のわじわじーはあのとき一瞬晴れたかもしれないが、その後もわじわじーは続いている」



(下地美夏子)


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