
1970年月日未明、ラジオ沖縄(ROK)の新人記者だった玉保世英義さん(73)のマイクを奪い、ある青年が叫んだ。
「沖縄のこの25年間の犠牲。何万という人が死んでいて、沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人は人間じゃないのか、ばかやろう。この沖縄人の涙を分かるのか」
戦後から続く米国の圧政に対し、沖縄住民の思いを代弁する言葉だった。
コザ市(現沖縄市)で、米軍が起こした交通事故をきっかけに、民衆が外国人の車を焼き払った「コザ騒動」から、20日で50年がたった。
コザ騒動前日の19日、美里村(現沖縄市)の美里小学校で毒ガス撤去を求める県民大会が開かれた。玉保世さんは県民大会の取材を終えた後、那覇市内の居酒屋で同僚や新聞記者らと飲んでいるところに一報が入った。「コザでえらいことが起きている」
記者たちは一斉に店から飛び出し、玉保世さんも録音機「デンスケ」を肩に掛け、タクシーに乗った。
コザ市内に着くと既に米軍がカービン銃を構え、道路を封鎖していた。状況を飲み込めないまま、裏道を抜けながらなんとか軍道24号(国道330号)にたどり着いた。横転した車から燃え上がる炎。ガソリンの臭いが一帯を包んでいた。いたる所で民衆が怒号を上げていた。
「とにかく音を拾いまくろう」とテープを回した。入社して間もない玉保世さんは取材経験はほとんどなかった。マイクを握る手が震え、汗がにじんだ。
突然、20代ぐらいの男性が目の前に立ち、マイクを奪った。「沖縄人は人間じゃないのか」。興奮した男性が叫んだ。玉保世さんはその叫びに胸が震えた。「よく言ってくれた」。勢いに圧倒され、名前を聞く暇はなかった。思いの丈を言い終えた男性は群衆の中に消えていった。
コザ騒動が起きた年の9月、糸満町(現糸満市)の玉保世さんの自宅近くで、米兵が主婦をひき殺す事故が起きた。被害者は同級生の母親だった。事故の直後、住民らは現場を取り囲み「また無罪放免だろう」と口々に言った。怒りと諦めの感情が入り交じっていた。
騒動後、日本復帰への機運が高まった。玉保世さんは定年までの大半を報道の現場で働き、県民の声を伝えてきた。半世紀を振り返り、こう言う。「当時から何も変わっていない。交渉の相手が米軍から日本政府に移っただけだ。現状を変えるには、諦めずに『おかしい』と言い続けなければならない」
(下地美夏子)