第32軍の将校向けに設置され、「慰安婦」とみられる女性らが働かされた「偕行社」に関する記述は、日本軍の史料や元将兵らの手記などにある。首里城下にある32軍司令部壕の保存・公開への機運が高まる中、県が偕行社の史実をどう解明し、継承していくかも焦点の一つとなりそうだ。
32軍の動向を伝える「第62師団会報綴(つづり)」(1944年12月21日)や研究者の聞き取り調査などによると、「偕行社」は当初現在の豊見城市長堂に設置された。50人が入れる宴会部屋があったほか、10人と2~3人向けの部屋が若干あったという。別棟もあった。偕行社で「酌婦(しゃくふ)芸者」を必要とする場合、所要人数の事前申し込みを通知している。
32軍司令部の長勇参謀長らの部下で、軍医・大迫亘氏の著書「薩摩のボッケモン」(1974年)に設置経緯が記されている。芸者やコック、仲居など総勢約20人を大分県別府市の「錦竜館」から募集し、沖縄まで飛行機で連れてきたという。
戦闘が激化する中、女性たちは長堂から首里城地下の32軍司令部壕へ移動したとされる。命令文書の「球軍日々命令綴」(1945年5月10日)では、首里からさらに現在の糸満市与座への移動を命じられた。移動に当たって、女性たちは四つのグループに分類され、「第四梯団」に「水石一登以下十三名(偕行社)」と記されていた。この命令綴の氏名と、留守名簿記載の「水石一登」の氏名が一致した。
一方、2012年に首里城公園内に設置された県の32軍司令部壕の説明板では、偕行社や辻町の女性たちに触れていない。触れていないことについて、沖縄戦研究者が問題視し、当時の県議会でも県議が県を追及した。県は、本年度、32軍司令部壕に関する資料収集事業を実施し、司令部壕に関する手記や日記、証言について情報を求めている。次年度には文献や資料に基づいて実態調査を行うとしている。