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沖縄芝居はチムグクル…やり続けてこそ名作に 役者・八木政男さん〈ゆくい語り 沖縄へのメッセージ〉35


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八木政男さん

 昨年12月16日、那覇市ぶんかテンブス館で琉球三大歌劇の一つ、「泊阿嘉」が上演された。コロナ禍でも文化芸術が歩み出すための「検証公演」と銘打ち、若手役者が透明のフェースシールドを着用して舞台に立った。

 出演者の接触を避けるため、主人公の樽金(たるがに)とヒロインの思鶴(うみちる)が手を取り合うことはない。思鶴が恋の病で息を引き取る場面では、父親が娘を抱きかかえることができず、仰天して卒倒する姿に変更。娘の死に泣き叫ぶ歌もカットした。

 演出を担った八木政男さん(90)は「苦心惨憺(さんたん)したけれど、感染が収まるまで歌劇はどうにもならない」と表情を曇らせる。それでも、後進のために「やり方を工夫するしかない」と模索を続ける。

 戦時中の統制下も、戦後の物のない時代も、工夫と情熱でウチナーンチュに娯楽を届けてきた。「芝居を積み重ねないことには役者が育たない。名作も、やり続けたから名作になった」

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 毎月1回の大型インタビュー「ゆくい語り」の第35回は沖縄芝居役者の八木政男さんに聞いた。

無い無い時代はなんくる知恵出る

 

画家の与那覇朝大氏に描いてもらった、母・オミトさんの肖像画と写真に納まる八木政男氏=1月26日、浦添市の自宅

Q:沖縄芝居の役者になった経緯を聞きたい。

 「生まれは那覇市の泊。5歳で父を亡くし、おふくろが4人の子を育てた。今のパシフィックホテル沖縄の辺りに新楽座という劇場があり、兄の大宜見小太郎たちがいた。小太郎は父親違いの兄で、私は8歳のころの一時期、新楽座に身を寄せていた。その後に小太郎一行は大阪に渡り、大阪で唯一の沖縄芝居の劇場だった戎(えびす)座で舞踊団をやっていた。昭和18年、12歳で小太郎に呼ばれて私も大阪に渡った」

 「家庭が困窮していたから、口減らしで連れて行かれるのだと思っていた。ところがどっこい、大阪に着いた早々に芝居をやらされた。というのも、二枚目の男優は兵隊に取られ、劇団には老優と女優しかいなかった。役者をさせるために私は呼ばれたわけだ。そこで本格的に役者を始めることになった。子役をしながら老け役までやった。劇場からの帰りに、お客さんに『タンメーワラバー小(ぐわぁ)』とからかわれたものだ」

大阪の沖縄芝居小屋 ウチナーグチ語り場

 

Q:大阪での沖縄芝居の様子はどうだったか。

 「太平洋戦争の真っ最中で生活は厳しくなるのに、不思議なことに劇場は満席だった。当時は紡績の出稼ぎなどで沖縄から多くの人が関西に出て来ていた。大阪だけでなく京都や神戸、堺からも、あちこちからウチナーンチュが芝居を観に来た。客同士でも『いったーシマまーやが』という具合にウチナーグチで話が弾む。簡単に沖縄に帰るわけにいかない土地で、沖縄芝居を観ることが唯一の語り場で、生きがいだったのだろう」

Q:戦中は劇脚本の検閲で、共通語以外の方言を使うことは軍事上問題だとして禁じられていた。

 「方言で芝居をすることが一層厳しく取り締まられた。だけど、客はウチナーグチの芝居を観に来るのに、ヤマトグチで演じられるはずがない。検閲官が見回りに来た時に、木戸口の娘が機転を利かせて『マヤー(猫)来ちょーんどー』と舞台に合図した。そしたら小太郎は『幕閉めれーっ』と芝居を中断し、女優たちが準備に時間がかからない浜千鳥の踊りを始めて、舞踊の演目を続けていく。検閲官が飽きて帰っていくと、またウチナーグチで芝居を始めた。そのうちお客さんも慣れてしまって、客席から『マヤーはいたんどー(はけたぞ)。とう、早(へー)く始(はじ)みれー』って茶化しが入った。今だから笑い話だけど、当時は必死だった」

Q:沖縄では地上戦で多くの住民が犠牲となり、県土が破壊された。戦後、沖縄芝居は庶民の娯楽として復興の活力をもたらした。

 「大阪から引き揚げ、那覇港に着いてトラックに乗せられて行くと、那覇の街は山形屋、円山号のデパートも無くなって、今の琉球放送の辺りから泊小学校の焼け残った校舎が見えるだけ。涙が出た。まだ公営劇団の時期だったので、竹劇団に配属されて名護を中心にやんばるの興行を担当した。辺土名の劇場や宜名真の公民館まで公演に行った。どこも大いに満員、大盛況だった」

北谷言葉で一本松 人情劇の名作誕生

「丘の一本松」で良助を演じる八木政男さん
世界館(後に国映館)こけら落とし公演「月の出の決闘」で二枚目を演じた八木政男さん(当時25)=1955年

 「芝居小屋はほとんど露天で、周囲もススキで囲っただけだった。ある時、次は『中城文化劇場』だと言われて、みんな喜んで北部から移動したら、やっぱりススキ小屋だった。劇場主にお医者さんがいたので『先生、おしろいが無(ね)ーやびらん』と相談したら、『水に溶いて使いなさい。ニーブター(おでき)も治るよ』と粉薬をもらった。亜鉛華と言ってた。はけで肌に塗ったら白くなるので、劇団員は『上等、上等』と使った。今度は幽霊みたいに真っ白になるので、頬紅が必要だ。座長が屋根瓦を拾ってきて、こすって塗り付けた。瓦は長らく付けていると皮膚がかゆくなるけど、またおしろいを塗ったら治ったって。元々は疥癬(かいせん)用の薬だからね」

 「鍋のすすをマッチ箱に詰めてきて、アメリカポマードで眉やひげを塗りつけた。かんざしは、五寸くぎにビール瓶のふたで作った。アメリカの払い下げ布団カバーが縦縞(たてじま)模様だったので衣装に仕立てた。無い無い時代は、なんくる知恵が出てくるもので、試行錯誤して芝居をしてきた」

Q:1949年に大伸座が旗揚げする。頑固な鍛冶屋のオヤジを大宜見さん、息子の良助役を八木さんが演じた「丘の一本松」は、不朽の名作となる。

 「小太郎が大阪時代に『丘の一本杉』という人情劇にほれて、沖縄芝居にアレンジして戎座で演じたのが最初だった。ただ、その時は従来の芝居言葉で上演して、それほど受けなかったそうだ。沖縄に引き揚げると、妻の静子が北谷なので小太郎もよく通うようになった。そこで北谷言葉のイントネーションが面白いということで、丘の一本松の舞台を北谷にしたのが当たった。これまで首里、那覇言葉以外は、沖縄芝居にほとんど使われていなかった。観る方も初めて聞く言葉が新鮮だし、演じる方も面白かった」

 「続けているうちに、千回公演を達成することもできた。小太郎の後、北村三郎と私でも続けた。私は60歳を過ぎるまで良助をやったけど、高宮城実人君が舞台に立つようになった。今では嘉数道彦君や金城真次君も演じている。芝居は継続することで名作になる。泊阿嘉、伊江島ハンドー小にしても、役者は違うけども何度もやり続けてきたことで名作になった」

Q:沖縄芝居役者としての哲学や、次世代に伝えたいことを聞かせてほしい。

 「『我(わ)が誠尽(まくとぅち)くち人(ちゅ)ぬ為(たみ)すりば 人為(ちゅたみ)んなどぅぬ為(たみ)どぅなゆる』。人に誠意を尽くすことは自分のためにもなると思って、常に真心を持って相手に接してほしい。沖縄芝居はウチナーグチで演じる唯一の芝居であり、ウチナーンチュのチムグクルだ。ウチナーグチを聞けない、話せないという人たちは民謡でも踊りでも何でもいいので、沖縄の芸能に努めて触れてもらいたい。観ることによって興味が湧いてくる」

(聞き手 経済部長・与那嶺松一郎)

はちき・まさお

 1930年11月25日生まれ、那覇市出身。90歳。43年に大阪の戎座で大宜見朝良一座に入座し、沖縄芝居の役者としての活動が始まる。46年に沖縄に戻り、47年に竹劇団に入団、49年に大伸座に入座。兄・大宜見小太郎の相手役として「丘の一本松」「米を作る家」などの名作劇を残してきた。99年に県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者認定。2000年に沖縄俳優協会会長。02年に県文化功労者。10年に旭日双光章を受章。20年3月までRBCiラジオの「民謡で今日(ちゅー)拝(うが)なびら」のパーソナリティーを57年にわたり務めるなど、巧みな話芸でテレビ、ラジオでも活躍する。

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 大宜見小太郎(おおぎみ・こたろう、1919~1994) 戦前・戦後に活躍した沖縄芝居役者。那覇市出身。小太郎は芸名で本名は朝義。小学生のころから子役で出演した。1949年に劇団「大伸座」を旗揚げ。数多くの芝居作品を生み出し、人情と笑いを交えた作風が「小太郎劇」と呼ばれ、親しまれた。

 取材を終えて  

忘れてはならぬ島言葉

経済部長・与那嶺松一郎

 昨年11月で90歳を迎えた八木さん。57年にわたり務めた「民謡で今日(ちゅー)拝(うが)なびら」のパーソナリティーを後進に譲ったが、今も現役で沖縄芝居の演出を手掛けるなど、達者な身ごなしは年齢を全く感じさせない。戦前、戦後の沖縄芸能にまつわる貴重なエピソードと巧みな語りに引き込まれるとともに、記憶の鮮明さに驚かされる。

 きらびやかな王国時代を舞台にした歌劇に史劇、庶民の生活と笑いに根差した人情劇など、沖縄芝居には、現実の憂さを忘れて没頭したウチナー大衆の世界観が詰まっている。だが、県民の4割がしまくとぅばを聞けないという時代にあって、「ウチナーグチで展開する演劇=沖縄芝居」も危機にある。

 生(ん)まり島ぬ言葉(くとぅば)忘(わし)んねー、国ん忘(わし)ゆん

 「まずは沖縄芝居を観てほしい」という八木さんの言葉を重くかみしめる。

(琉球新報 2021年2月8日掲載)