ジャズピアニスト香村英史さんを悼む 「バーニングスタイル」を追いかけて…ベーシスト・西川勲


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
ピアノを演奏する香村英史さん(提供)

 香村英史さんは普天間高校を卒業後、米軍基地内でピアノを演奏する仕事で稼いでいた。米軍統治下の時代に、東京やフィリピンからプロの演奏者がたくさん来ていて、沖縄に本場のジャズがあった。香村さんはそういう現場を見ていた。ジャズ理論や教本などない頃だ。東京から来ていた、ジャズピアニストの平登志也さんの演奏を後ろから見て、勉強していたと言っていた。

 1978年、香村さんが率いるトリオに誘われた。ジャズをしたことがないのに、なぜ誘ったのか分からない。香村さんとホテルのレストランで演奏する仕事をしていた時期もあった。深夜に仕事を終えた後、朝まで毎晩のように「1812年」というクラシック喫茶で場所を借りて演奏していた。香村さんは与世山澄子さんの店「インタリュード」でもずっと演奏していた。ツーカーの仲だ。ジャズトリオでの演奏をする場所を作るため、那覇に「カムズハウス」を開店した。音楽漬けの日々を送っていた。

 香村さんのオリジナル曲に「Guts」という曲がある。気骨のあるプレーをしたかったんだろう。香村さんの燃えるようなエネルギッシュな演奏“バーニングスタイル”が好きだという後輩もいた。妥協しないからとても厳しかった。いつか香村さんを超さないといけないと思うようになっていった。われわれのモチベーションを上げてくれた存在だ。体調が悪くなるまで、ジャズピアノ教室も開いて、ピアニストにもかなり影響を与えていた。

 普段はとても優しく、とにかく冗談が好きで、演奏前に笑わせたりする。ジャズの世界に引き込まれたのは、香村さんから「俺のところに来い」と誘われた一言があったから。その言葉がなかったら今はないだろう。「もっとうまくなりたい」という気持ちは今も続いている。ジャズは死ぬまで追求していく音楽だと思う。香村さんからジャズミュージシャンという生き方を教わった。
 (談、ジャズベーシスト)
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 香村英史さんは7日に死去、78歳。