コロナ禍で生活に困る人への食料配布など、民間の活動が活発化している。そこから見えてくるのは、フルタイムで働いても生活が成り立たないほどの低収入の労働環境といった、コロナ禍以前から指摘されていた沖縄社会の課題だ。長く働き続けても、安定した生活を送れない高齢者の状況などを報告する。 (黒田華)
80歳の女性=那覇市=は幼い頃は親の農作業を、結婚後は大工の夫を手伝い、40代は医療事務を約20年、60歳ごろは新聞配達を約10年勤めた。大けがをして足が少し不自由になった今も、「新聞の集金はさせてもらっている」と働き続ける。
30代だった1970年代、海洋博前の好景気で腕自慢の夫には注文が次々と入り、仕事は途切れなかった。女性も現場の掃除などを手伝い、一緒に子育てをして住宅も購入した。その後、子育てをしながら家でもできる仕事をと、学費を払って学校に通い医療事務の資格を取った。近所の事業所に勤め、繁忙期は夜中までかかって間に合わせることもあったという。ただ夫の収入と合わせても、住宅ローンを払うと年金を全額納める余裕はなかった。
夫は60歳を過ぎて体を壊し、大工仕事ができなくなった。「やることがなくなってお酒を飲むのが仕事」になった。やがて肝硬変で亡くなった。同じ頃、女性の勤める事業所が閉鎖になり、新聞配達で生計を立てるようになった。大きなけがを負い、10年も続けると腰への負担が大きくなったことから、70代になると集金だけに減らして清掃の仕事もした。今は月3万円ほどの年金と新聞集金の1万3000円、同居する娘の収入で生活する。
娘は在宅で夜遅くまで仕事をしているが、コロナで収入が減り、女性は「十分な給料をもらえていないみたい」という。孫の進学も見据え、蓄えが必要となる。女性は配布された食料を「とても助かる」と丁寧に両手で受け取った。
80歳まで働き続けても、楽にならない社会。「働くのは平気。だけど大変だ。学校を出た後、最初の仕事の選択を間違ったのかな」。影響も定かではない60年以上も前の選択を、理由に挙げるしかなかった。
ヒカンザクラが鮮やかに咲く2月、風は冷たく、日陰に腰を下ろすと体が冷える。「どうにか食べるものはあるのに、来ていいかなとちゅうちょしていた。来てみたら、みんなは親切で気持ちがいい」。年齢を刻んだ両手をこすり暖めながら、穏やかにほほ笑んだ。
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ゆいまーるの会は食費の寄付や食品の寄贈のほか、助成金の申請などのボランティアも募集している。問い合わせは嘉手苅さん(電話)090(3793)7906。食品の寄付は那覇市社会福祉協議会でも受け付ける。
緊急小口資金、総合支援資金の詳細は厚生労働省のホームページ「生活福祉資金の特例貸付」にある。問い合わせは居住する市町村の社会福祉協議会まで。