余震の中で取材、被ばくの不安も…事実伝える報道、被災地でも沖縄でも<東日本大震災・記者が振り返る10年>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
壊滅的被害を受けひとつの街がなくなった=2011年4月13日、福島県相馬市

written by 仲村良太

 地震発生から1カ月が経過した2011年4月11日、福島県での取材は震度6弱の余震から始まった。地震、津波に加え、福島第1原発事故という誰も経験したことがない災害を沖縄県民に分かりやすく伝えるため、県出身者らが見た被災地をありのまま書いた。

 現場では何度も余震が続いた。福島県いわき市沿岸部を取材した時は大きな揺れで倒れてしまい、地面の割れ目に足が挟まれそうになった。津波にのみ込まれた街は、海から数キロ離れていても生臭かった。原発事故で立入制限区域の場所も多く、被ばくしないか不安もあった。
 翌12年も福島を、13年は宮城と岩手を訪れ、生活再建に向けて歩み出す様子をそれぞれ取材した。

 あの震災発生から10年。ことしも福島県富岡町で暮らす名嘉幸照さん(79)=伊是名村出身=を電話取材すると、「(町に)帰ってこられない人も多い」と教えてくれた。町で実際に暮らす人々は震災前の1割。福島第1原発の周辺地域では今も戻れない沖縄県出身者もいる。原発事故による災害は今も続いている。

 私自身の体験は心に刻まれているが、取材相手に教えてもらった記憶は薄れつつある。家族を亡くしたり、実家が流されたりした体験を伝えた。けれど、紙面を見ないと詳細を思い出せないことも増えた。今年の取材でも「風化させないで」「また来てほしい」などと言われ、心を読まれているような気がした。

 同時に既視感も覚えた。戦争で家族を失い、米軍基地に土地を奪われたウチナーンチュの先輩たちからも同じ言葉を聞いたことがある。

 10年になるが、被災地は課題を抱えたままだ。それを放置したままでは記憶は美化され、歪曲(わいきょく)された情報だけが流れ、問題は握りつぶされかねない。沖縄も同じだ。事実を伝え続ける必要性は一層増している。

◇  ◇  ◇

 未曽有の大災害から10年。琉球新報はこの間、延べ20人以上の記者を現地に派遣し、主な取材先となった沖縄県出身者らの視点を通じて被災地の現実を伝え続けた。あの日から変わり、変わらないことは何か。現場の今を報告し、派遣記者が現場の変遷を振り返った。