高台へ集団移転したけれど地域ばらばらに…新しい故郷つくる決意<刻む10年 沖縄から、被災地から>11


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長年暮らした花渕浜地区に再建した会社事務所の前に立つ鈴木美智子さん(左)と夫の享さん=3日、宮城県七ケ浜町

 数十メートル先にあるはずの海は、そびえ立つ防潮堤でよく見えない。「ここ。家はここにあったの」。宮城県七ケ浜町花渕浜地区で、東日本大震災後に建てられた観光施設「うみの駅七のや」。隣接する広い駐車場で、座間味村出身の鈴木美智子さん(67)が声を上げた。一帯は災害危険区域となって居住が制限され、建物はまばら。冷たい海風が強く吹き付けた。

 日本復帰翌年の1973年、鈴木さんは夫享さん(67)が生まれ育った七ケ浜町に越した。潮の香りが漂い、どことなく沖縄と似ていた。家の鍵を掛けない、オープンな近所付き合い。穏やかな暮らしは、震災で一変した。

 鈴木さんの自宅と享さんが経営する会社事務所は大津波で流失。隣の多賀城市のみなし仮設住宅に入り、再建の道を模索した。「花渕浜に戻りたい」という強い思い。だが、周辺は災害危険区域となり、高台への集団移転を促された。迷った末、高台移転を決めた。

 移転先は笹山地区。被災した2地区の住民が集まった。山を切り開いて行政負担で宅地を造成し、その後各自で家を建てる流れだ。ただ、宅地造成は想定より時間を要した。「もう待てない」としびれを切らし、別の地域で中古住宅を買うなどする人が相次いだ。約170世帯の予定だった集団移転は、最終的には128世帯に。コミュニティーはばらばらになった。

 2015年12月、花渕浜を望める高台に、鈴木さん待望の一軒家が完成した。対面キッチンに広めの居間、テラスなど、人が集えるよう設計にもこだわった。「やっと元に戻れる」と、胸を躍らせた。

 新生活は、思い通りにはいかなかった。近所付き合いが密だった震災前と比べ、顔見知りが少なく、外で会ってもあいさつ程度。元の生活とは程遠かった。「立派な家を建てたら心も満たされると思った。期待とは違った」

 当初は「早く親しくなりたい」と走り回った。地域のイベントに関わり、距離を縮めようと奮闘。だが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、イベントは軒並み中止となった。

 気落ちする鈴木さんに、享さんは「移ってきてまだ5年だよ」と諭す。行政区長も務めており「昔のような関係を築くには時間がかかる。コミュニティーの再生はそう簡単じゃない」と指摘する。どんなに望んでも、震災前には戻れない。享さんは「笹山が新しいふるさとになる。子や孫のため、基礎をつくる責任がある」と力を込める。

 自宅を再建した約半年後には、会社事務所も完成した。事務所は元の自宅の近くに建てた。花渕浜を歩きながら、鈴木さんが漏らした。「今でもここに戻りたい。でも、笹山の方が安全で、子どもたちにも良いもんね」。さみしげな表情で、海辺を見つめた。 (前森智香子)

(前森智香子)