震災と沖縄戦を経験した福島の小児科医 二つのふるさとを結ぶため語り継ぐ<刻む10年 沖縄から、被災地から>12


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子どもたちからもらった寄せ書きを手にし、笑顔を見せる島田和男さん=4日、福島市

 黄色の画用紙に、カラフルなペンで感謝の思いが描かれている。「しまだせんせいありがとう」。福島市の小児科医島田和男さん(85)は昨年3月、現役を引退した。9歳で沖縄戦を体験。大学進学後は福島で暮らし、営んでいた医院も33年で幕を下ろした。園児たちから手紙や寄せ書きが届けられ「孫からの贈り物のようです」と目尻を下げた。

 沖縄市出身。沖縄戦時は、祖母や母らと戦場を逃げ惑った。北中城村島袋にある一族の墓に隠れていたところ、投降を促す、たどたどしい日本語を耳にする。ハワイ帰りの親族女性の説得もあって墓を出て、宜野座村福山の収容所に送られた。

 19歳で福島県立医科大に進学した。のどかで戦争の爪痕が感じられず、ふるさととの差にがくぜんとした。「同期生に沖縄戦のことを語っても理解されない。体験していないことを理解するのはとても難しいと思い知った」と振り返る。

 総合病院での勤務を経て、1986年に独立。以来、地域に根差した医療を続けてきた。東京電力福島第1原発事故の直後は、原発に近い沿岸部からの避難者のため、市内の避難所のボランティア診察を請け負った。広い体育館に段ボールを敷き、布団にくるまる大勢の人たちを見て「沖縄戦時の収容所のようだ」と自らの体験を重ねた。

 事故後、受け入れ側だった福島市内でも、局所的に放射線量が高い「ホットスポット」が複数見つかった。一時は外遊びを控えるようになり、運動不足で肥満傾向の子どもが増えた。

 目に見えない放射線への不安の声が相次ぎ、県内外に避難する家族が続出。原発事故は子どもたちに大きな影を落とした。

 10年近くたった今は、放射線量の数値も落ち着いており、日常を取り戻していると感じる。ただ、それはあくまでも福島市など内陸部の話だ。「原発が立地する浜通りは今も深刻な状況にある」と険しい表情を見せる。

 戦争体験を振り返り「二度とあのような時代が来てはいけない」と語る島田さん。戦争も震災も、継承が大事だと考える。診察などで子どもと接する際、しばしば自身の戦争体験を話す。「理解には時間がかかる。震災の体験に引きつけて伝えるようにしている」と工夫する。

 地域のため、84歳まで患者と向き合った。充実した日々だったが「正直余裕はなかった」と苦笑いする。戦争と震災、原発事故。沖縄と福島は共通項がある。「私にとって、ふるさとは二つあるような気持ち。両県を結び付けるようなことができたら」と、未来を思い描いた。

(前森智香子)

(おわり)