「岩陰に眠らせた」沖縄戦で亡くなった弟の遺骨を探す男性 ガマフヤー具志堅さんと現場を歩く


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弟の遺骨を探しに来た宮城定吉さん(右)とガマフヤーの具志堅隆松代表(中央)=13日、糸満市新垣

 【糸満】沖縄戦で両親と2人の弟を亡くした宮城定吉さん(87)=那覇市=が13日、末の弟・定宗さんの遺骨を探すため、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表と一緒に糸満市の新垣集落を訪れた。記憶を頼りにたどり着いた、定宗さんを葬ったと思われる場所は現在は農地になっており、遺骨は見つけられなかった。宮城さんは「南部の土には多くの人の遺骨があり、弟も眠っている。その土を、辺野古に持っていくなど絶対にあってはならない」と訴えた。

 宮城さんは、辺野古新基地建設に使う土砂を、遺骨が残る本島南部から採取する計画の断念を求めハンガーストライキをしていた具志堅さんに共感し「弟の骨を探したい」と相談した。具志堅さんは「多くの遺骨は収集されているが、取り切れていない遺骨もある」と宮城さんの気持ちに応え同行した。

 宮城さんは11歳の時に沖縄戦を体験した。終戦直後は戦争孤児として妹と2人、コザの孤児院に入れられた。定宗さんは米軍の捕虜になった1945年6月23日に栄養失調で亡くなった。「妹の背中にいた定宗の顔を米兵が見て、首を横に振った。それで亡くなったことを理解し、『お母さんのところに行きなさい』と近くの岩陰に寝かせた」

 宮城さんと具志堅さんはこの日、前田潤新垣区長の案内で集落を歩いた。地区北側の高台で、宮城さんは「この近くの大きな岩に弟を眠らせた」と振り返ったが、現在その場所は土地改良で農地となっていた。「岩は無くなったのかもしれない」と声を落とす宮城さんに、具志堅さんは「探しに来ただけでも弟さんの供養になる」と伝えた。

 前田区長によると、新垣区では戦後、住民らの手で1万柱の遺骨が収集され、国立戦没者墓苑や集落近くの「浄魂之塔」に納められた。宮城さんと具志堅さんは「浄魂之塔」にも足を運び、祈りをささげた。 (金城実倫)