先天性風疹症候群により難聴を患った比嘉真弓さん(55)=那覇市=は中学生時代の恩師、故漢那義一さん(享年77)に憧れて教諭を目指し、1984年に沖縄大学に入学した。
経営学を専攻して簿記などを学ぶ傍ら、教員コースで教師になるための講義に参加した。手話通訳者や代わりにノートに書きとどめる「ノートテイク」のボランティアはいない時代。聞こえないという現実を改めて突き付けられた。
「魔法で聞こえるようになったら」
そう愚痴をこぼしたこともあったが、何とか気持ちを奮い立たせた。時には講師と筆談で会話して、講義を理解しようと食らいついた。大学を卒業するまでに教員免許を取得した。
大学卒業後、非常勤だったが、夢である教壇に約7年間立つことができた。96年、泊高校定時制に着任した。生徒一人一人の理解度などに合わせ、難易度の異なる問題用紙を作成するなど工夫した。
ある日の放課後、課題に取り組む男子生徒が比嘉さんに聞いた。「なぜ先生になったのか」。比嘉さんが答えた。「互いに認め合える子どもを育てたいからだよ」
その答えと共に浮かんだのは、中学時代の恩師で、ハンドボール部顧問の漢那さんとの出会い。難聴のため同級生との違いに苦悩していた比嘉さんに対し、漢那さんは区別せずに指導した。比嘉さんは部活仲間との絆を育み、支え合えることに気付いた。教諭を志すきっかけとなった思いを、比嘉さんなりの言葉で伝えた。
教諭正採用の夢はかなわなかった。けれど、教諭時代を語る表情は後悔を感じさせない。教諭になった理由を質問した泊高校の教え子、田場聡さん(51)は後に小学校教諭になった。「比嘉先生は懸命に生徒と向き合っていた。自分が教壇で戸惑った時、比嘉先生を思い起こす」。そう振り返る田場さんにとって、比嘉さんは目指すべき標(しるべ)の一つだ。
「短い時間の中で彼のような生徒を育てることができた」。そう語る比嘉さんも誇らしげだ。
教壇から降りた後、次の仕事を探した。電話対応ができないという理由で不採用になったこともあった。そんな時、比嘉さんは定時制高校の生徒たちを思い出した。昼間の仕事の疲れをこらえたり、授業に間に合うために走ったり、戦後の貧しさから勉強できなかったりした老若の姿。「私も負けじと、がむしゃらに勉強した」。98年、比嘉さんは県庁職員に合格し、勤務して22年になる。やがて夫と出会い、息子を授かった。
昨年、「沖縄風疹聴覚障害教育を記録に残す会」は、「聴こえない世界に生きて~沖縄風疹児55年間の軌跡~」を出版した。比嘉さんの体験も「ろうと共に人生を楽しむ」の題名で掲載し、後輩へのメッセージをつづった。
「何事も諦めず挑戦して勝つこと。自分を磨き、こらえて苦難も乗り越えた時、自分が孤独でないことを知り、周りに感謝すること。限界を作らなければ、そんな幸せが必ずあるということ」。支えられ、きょうがある。比嘉さんは次の世代を支え、エールを送る。
(名嘉一心)
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