「首里で玉砕」一転…住民犠牲強いた決断の場所 大本営の意向を忖度


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32軍将校らの作戦室とみられる場所(米軍情報報告書より)

 米第10軍諜報部(G2)の「Intelligence Monograph(情報報告書)」は、米軍が当時調べ上げた、沖縄戦における日本軍の体制や陣地などが約400枚にわたって詳細に記している。

 米公文書館が保管、1995年12月に機密解除され、県公文書館もそのまま所蔵している。

 報告書には、当時米軍が撮影した、中枢部を写した貴重な写真が数枚、掲載されている。32軍の情報室と24師団の作戦室とみられる場所を写した写真には、木の机と丸イスが並び大量の紙が散乱している。コードとみられる配線が垂れ下がっている様子も見て取れる。

 中央部には、命令下達所や情報室など司令部の中枢機能が集まっていた。日本軍は撤退する際、中央部につながる坑道を爆破しており、県は戦後の試掘調査で到達を目指したが、到達できていない。

■大本営と32軍にずれ

 1944年3月、奄美から先島までを作戦範囲として編成された第32軍は同年7月以降、「決戦」を想定し、急速に増強された。しかし、同10月~11月、フィリピン・レイテ決戦で敗れたことにより、大本営は本土決戦へと傾き、沖縄戦を「決戦」の場所ではなく「本土決戦に向けた時間稼ぎ」と位置付けることになった。レイテ決戦のため、32軍から最精鋭の戦力として期待されていた第9師団を引き抜いたが、代わりの増援部隊を沖縄に送る手だてもなかった。

米軍が沖縄戦における日本軍の戦略や兵力、陣地の調査と分析をまとめた情報報告書の表紙

 こうした対応について、「沖縄県史沖縄戦」の執筆者の一人である明治大の山田朗教授(日本近現代史)は大本営には32軍への「後ろめたさ」が、32軍には「捨てられた」との思いが生まれ、両者の間にわだかまりが生じていたと指摘する。

 32軍と大本営の間には、沖縄戦の作戦でもずれがあった。飛行場を死守し、米軍に空から攻撃を加える「航空決戦」を重視した大本営に対し、32軍は上陸させた敵を消耗させる「持久戦」を意図した。山田教授によると、そのずれは、沖縄戦の作戦の混乱にもつながった。米軍上陸1日目にして飛行場が奪われると、大本営は航空決戦構想の崩壊と、沖縄の飛行場が本土空襲に使われることを何より恐れた。天皇から「この戦いが不利なれば陸海軍は国民の信頼を失い、今後の戦局憂うべきものあり、現地軍は何故攻撃に出ぬか。兵力足らざれば逆上陸もやってどうか」(「宮崎周一中将日誌」2003年、錦正社)との言葉を受けたことから、32軍に対して沖縄戦に対する天皇の「憂慮」の趣旨を伝え、飛行場奪回を32軍に要求した。

■急な方針転換

 作戦主任の八原博通氏は予定通り持久を主張したが、司令部は動揺し、2回にわたって攻勢作戦の発起と中止を命じるなど混乱。4月12日と5月4日、24師団による2度の反撃を強行したが完全に失敗し、いわば温存していた24師団の歩兵の6割を近くを失う大きな損害を出した。攻勢翌日の5月5日、24師団の作戦室をのぞいた状況が八原氏の著書「沖縄決戦」(1972年、読売新聞社刊)に記されている。「第一線から命令受領者や、報告に来る将兵で、室はいっぱいだ。彼らの殺気に満ちた顔には泥がつき、その軍衣は破れ、中には、血に染まった包帯姿の者もいる」。

 32軍は2度の攻勢でほとんどの戦力を一気に消耗し、首里で戦闘を終了するはずだった。しかし、米軍が迫っていた5月21日夜、司令部壕の参謀室に参謀や師団長らが集まり、司令部の喜屋武半島への南部撤退案を決定した。山田教授は、この急な方針の転換の背景には、連合国側に打撃を与えた後に講和に持ち込む「一撃講和論」があったと指摘する。「(司令部は)いかに米軍に打撃を与えるかが期待されているのは分かっていた。天皇を含め、日本の国家指導層が何を期待しているのか、ということを忖度(そんたく)した。本来の作戦計画では首里で玉砕だった訳だが、大勢の避難民がいる南部撤退を決断した」と語る。

 この決断により、本島南部は軍民混在の戦場となり、犠牲が拡大した。多くの住民が壕を追い出されるなどして逃げ場を失い、砲撃を受けて亡くなった。不当に日本兵に殺害されたり、米軍への投降を許されずに「集団自決」(強制集団死)を強いられたりして命を落とした。山田教授は「沖縄戦の最大の悲劇を生み出した決定をしたのが首里の司令部壕であった。その決断は、住民の犠牲を一切考慮しない決断であり、その結果をすべて住民が背負うことになった」と語る。

■多くの県民に憤り

 沖縄戦の悲劇を拡大した司令部の決断に、今も多くの県民が強い憤りを抱く。元学徒通信兵として伝令の岐路、司令部壕内をたびたび通った宮平盛彦さん(90)=西原町=もその一人だ。内部の様子はあまり覚えていないが、第5坑口を出たあたりで女性たちが玄米を竹の棒で突いて、司令部の幹部らのためとみられる精米をしている様子が印象に残っているという。宮平さんの母や姉らは南部で避難の途中に砲弾の犠牲になった。「戦争のことは話したくないけれど」と前置きし、「首里で戦争が終わっていればこんなにたくさん死ななくてすんだ。日本軍が摩文仁まで行ったのは間違いだった。これだけは書いてほしい」。そう強調する。宮平さんは、司令部壕は南部撤退を中心とした沖縄戦の教訓と反省を語り継ぐために保存するべきだ、との思いだ。
 (中村万里子)