軍司令部の命令で入り口を爆破 壕内には大量の文書が残る<32軍壕を読み解く>2


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日本軍の最も重要な文書が見つかった炊事場。日本軍は書類を燃やすのではなく埋めたため、回収されたとみられる(米軍情報報告書より)

 1945年5月、首里を占領した米軍は、地下の日本軍第32軍司令部壕内に侵入を図るも、全ての出入り口と換気口は爆破されていた。米軍情報報告書「intelligence monograph」には、日本軍捕虜への尋問によって、爆破は、32軍司令部の命令で行われたと突き止めたことが記されている。

■工兵隊10人が実行

 司令部壕の爆破を担ったのは、日本軍第62師団工兵隊だった。本紙1992年7月14日夕刊で当時、工兵隊軍曹(後に曹長)だった大阪市在住の水野芳男さんの証言で判明している。水野さんは、45年5月27日深夜から28日未明にかけ、工兵隊所属の10人が爆破の命を受け、豊見城市長堂から首里に向かったのを目撃した。その後、10人の行方は分かっていない。

 司令部は、壕の爆破だけでなく、文書の破壊も命じていた。しかし、壕爆破の命は実行されたが、文書の破壊は実行されなかった。なぜか。米軍情報報告書は「文書の破壊と壕の爆破を担った(日本軍の)破壊部隊は、米軍が壕に決して入らないと決め込んでいた。多くの文書が破壊されたが、そのほかの多くは破壊されず、特に重要なものは回収された」と記す。

■炊事場に重要文書

 米軍は、日本軍の文書を見つけた場所を記し、写真に収めた。「炊事場は、32軍の最も重要な文書を焼こうと試みた場所だった。しかし、破壊部隊は焼く代わりに埋めた」(同報告書)との記述と、炊事場とみられる写真がある。写真には、大量の文書が散乱している様子が見て取れる。さらに、32軍情報室の壁裏の棚からも複数の重要な文書を発見。屋外で燃やされそうになっていた文書も「雨と、付近への爆撃で引き起こされた地滑りで火は消え、埋もれずに残った」。

米軍が「棚の後ろで日本軍の大量の文書を見つけた」と記されている32軍の情報室と24師団の作戦室のあった場所(米軍情報報告書より)

■若者への継承

 戦後、32軍司令部壕は放置され続けてきたが、全国でも太平洋戦争の爪痕を戦争遺跡として文化財指定する動きは進んでいない。明治大の山田朗教授(日本近現代史)は「最後、だいたい司令部があった場所は破壊されたりして、実態を示す史料を残さない」と指摘した上で、司令部壕保存・公開の意義について「国内最大の戦闘を指揮していた場所を今日の目から見直すのはすごく大事なこと」と話す。山田教授は、若い世代への戦争の継承の課題を「戦争と自分が切り離されてしまう。過去にあったのを知っているが自分の問題として考えられない」と感じている。

 明治大の生田キャンパスは、日本軍の登戸研究所の跡地の一部を明治大学が購入して開設した場所でもある。授業で「この場所で戦争の研究が行われ、中国で捕虜の人体実験もしていた、と(学生が)聞くと、教科書の中の出来事でなくなり、自分も歴史の流れの中にいるのだ、ということに気がつくことができる」と手応えを話す。一方、沖縄では「数ある南部戦跡はあっても司令部の在り方と結びつけて語られていない」とし、「司令部壕がきちんと保存・活用されると、沖縄戦の全体像がより伝わりやすくなるのではないか」と提案する。
 (中村万里子)