牛島司令官の部屋につながる第3口、換気口の写真も<32軍壕を読み解く>3


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第3坑口の写真。守礼門北側のほぼ真下付近にあった。(米軍情報報告書より)

 1945年5月29日、首里を占領した米軍は首里城地下の第32軍司令部壕を徹底的に調べ上げた。情報報告書「intelligence monograph(インテリジェンス・モノグラフ)」には、戦後、ふさがれたり、場所が分からなくなったりしている坑口や換気口の写真が掲載されている。

 その1つが、現在の城西小学校の敷地内にある第3坑口。「牛島司令官の部屋につながる第3坑口」と説明がある。現在、第3坑口はふさがれているが、県が臨時に設置した立坑から第3坑道と第2坑道へアクセスできる。

 司令部壕には5つの坑口と2つの換気口があった。米軍はほぼ全てに入り、中枢部にも到達した。一方、県が場所を特定できたのは首里金城町側の第5坑口のみ。中枢部を含む第1と第4坑道には入れておらず、坑口の場所も特定できていない。(枝坑口なども特定できていない)

■爆破された第1坑口

 第1坑口は、米軍も調査できていない。1945年4月中旬に爆破で崩壊したとみられる。首里の沖縄師範学校の元学徒らが手記を寄せた「昇龍」(1990年、沖縄師範学校昭和20年会発行)に第1坑口が爆破されたとみられる状況が記されている。1945年3月21日、本科3年生だった玉城清永さんは司令部直属部隊に配属され、完全武装で守礼門真下の坑道入り口で歩哨の任に着いたという。歩哨を交代して別の壕に着いてしばらくした時、「壕の真上を砲弾がものすごい音(弾丸の流れる音)をたてて通り過ぎた」のを目撃した。「守礼門下の壕の入り口に砲弾が数発命中して数十名が生きうめになったということだった」と聞いた話を記す。

■急造爆雷か

「シャフトA」のそばの大きな岩の下に座る米兵ら。木曳門西側にあった。(米軍情報報告書より)

 米軍報告書には、米軍が最初に探り当て「シャフトA」と呼んだ換気口のそばの大きな岩の下に3人の米兵らが座る写真も掲載されている。岩の高さは、その下に座る米兵の座高から8メートルはあるとみられる。シャフトAから下の坑道まで33・5メートル。直線ではなく、Lを2つ組み合わせたような構造で北向きに開いていた。下には軍の中枢部が集まっており、上から爆弾を落とされても、すぐに達しないようにするためとみられる。

 シャフトAの底を写した写真に「無害化された爆弾」との説明で、急造爆雷とみられるものも写されている。

 司令部壕にいて、戦線に急造爆雷を運搬した沖縄師範学校元学徒の与那覇政昌さんは「昇龍」に「迫撃砲弾が百発以上ダダダッとさく裂する。鳴り止むやいなや、それっと文字どおり死に物狂いで駆け抜ける」と記している。司令部壕内の状況については「長参謀長の室の前を通ると、いつもにぎやかな女の笑い声が聞こえてきた」「雨の多い時期で壕の中はいつもじめじめしていて、よく病気にならなかったものだ」と述懐する。急造爆雷を運搬していた与那覇さんは、ついに爆雷で戦車攻撃の命を受け、城西小学校の校庭のタコ壺壕で待機したが、戦車は現れなかった。与那覇さんは「死んでしまった学友も、生き残った自分も、自分自身の意思でそうなったのではなかったんだと思うと、戦争というものの空しさをつくづく感じてやり切れない」とつづる。

■シャフトAはどこに

シャフトAの底で急造爆雷を写したとみられる写真。「無害化された爆弾」と記されている(米軍情報報告書より)

 シャフトAは戦後、琉球大学の学生生協や食堂などが建てられた際に土地の造成で地形が変わり、埋められたとみられる。県などは戦後、司令部壕の全貌を解明しようと調査を行ったが、中枢部には到達できていない。司令部壕について個人で研究を重ね、平和ガイドも務める第32軍牛島満司令官の孫の牛島貞満さん(67)は「琉大の工事の状況が分かればシャフトAの位置を特定し、中枢部が調査できるのではないか」と話す。中枢部の調査や保存・公開が大切だと語るのは、司令部の責任を重く見ているからだ。牛島さんは、沖縄戦の悲劇をもたらした最大の原因は、祖父の牛島満司令官が決定した「南部撤退」と「最後まで敢闘」の命令にあったと考えている。戦争を終わらせることなく、徹底的に持久戦を長引かせた2つの命令。「住民を戦闘に巻き込み、さらなる悲劇を生み出した。なぜ、亡くならなくてもよかった命が失われたのか、それを学ぶ場として首里の司令部壕の保存、公開が重要ではないか」と語る。

(中村万里子)