<普天間返還合意20年>大田元知事、江田元首相秘書官、デミング元在日米首席公使に聞く(2016年4月12日)


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大田昌秀氏=那覇市の沖縄国際平和研究所

<大田昌秀元県知事> 沖縄もう引き受けられない「戦場にせぬ」反対民意は正論

 Q:合意までの経緯は。
 「1996年1月に基地返還アクションプログラムを作り、2015年までの基地全面返還を日米両政府に求めた。橋本龍太郎首相が2月に訪米する直前、財界人らの「沖縄懇話会」メンバーの諸井虔氏(太平洋セメント相談役)が訪ねてきた。前年に少女乱暴事件があり、諸井氏は首相が基地問題に苦慮していることを訴えた。私は『基地によって戦争の標的になる。沖縄はもう引き受けられない。(首脳会談で)安請け合いの発言をすれば総理の人格が傷つくだろう』と言った。『最優先は』と問われ『普天間周辺に学校が密集している。ヘリが落ちたら大惨事になる』と伝えた。首脳会談で首相とクリントン米大統領は初めて普天間返還を話し合い、4月の合意につながった」

 Q:橋本氏からは電話で返還合意を伝えられた。
 「首相に『県の要望を入れ普天間を返す。県も協力してほしい』と言われ、『できることとできないことがある。三役会議で話し合う』と言った。首相はむっとして『自分も独断で決めた。知事も決めてもらっていいのではないか』と言った。代替施設の具体的な話はなかった。橋本首相とは17回会ったが、最後に反旗を翻したと報じられたのは誤りだ。『引き受ける』とは一切言っていない」

 Q:移設先はその後、名護市辺野古とされた。
 「知事在任中、米国立公文書館に職員を常駐させて調べた。島ぐるみ闘争の後、反米感情の高まりで中南部に集中する基地の運用に支障が出ることを警戒した米国は1960年代後半、辺野古に新基地建設を計画した。それが半世紀を経て息を吹き返した。しかも日本が建設する。現在、県外世論は半数超が辺野古移設に賛成だが、建設や維持に巨額の負担が伴うことを理解していない。辺野古移設で基地被害を受ける人口が減ると言うが人間は平等で、人数の問題ではない。沖縄戦体験者も『沖縄を再び戦場にしない』と座り込んでいる。解決は見えないが沖縄住民の反対は正論だ」

 Q:代執行訴訟は県に有利な判決も予想された。
 「地方自治法改正で国と地方は対等になった。だが最高裁まで行けば国に有利な方向へ進むと懸念している。司法は自立した判断をしてほしい。県は翁長雄志知事を米国防長官や太平洋軍司令官など権限を持つ人に会わせ、沖縄の声を伝えるべきだ」(聞き手・宮城隆尋)
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 おおた・まさひで 1925年、久米島生まれ。琉球大学教授を経て90〜98年に県知事を2期、2001〜07年に参院議員を1期務めた。沖縄国際平和研究所主宰。著書は「沖縄、基地なき島への道標」をはじめ、沖縄戦、平和、民衆意識などをテーマに多数。

 

江田憲司氏=2016年4月7日、衆院第2議員会館

<江田憲司元首相秘書官、民進党代表代行>辺野古移設はやむを得ない 海兵隊撤退と併せて交渉を

 Q:返還合意時、橋本龍太郎首相の秘書官だった。20年たっても返還実現してないことをどう考えるか。
 「橋本総理が心血を注いで成し遂げた普天間返還合意が20年たっても実現していないのは本当に残念でならない。一番大きな原因は、橋本首相を継いだ小渕恵三首相を除いた歴代首相に、沖縄の皆さんと真摯(しんし)に向き合う姿勢が欠けていた」

 Q:橋本首相は沖縄とどう向き合ったか。
 「橋本首相は毎日、沖縄関係の資料や大田昌秀知事の著作などを持ち帰っては読みふけって、沖縄をもっと理解しようとしていた。威張る、怒る、すねるとか言われた橋本総理だが大田知事と17回も話し合いをして声を荒らげて席を立つなど一切なく、粘り強く丁寧に話をしていたし、地元の意見を吸い上げながら決めた。今の安倍政権と天と地の差がある」

 Q:辺野古以外の選択肢はなかったか。
 「米国は県内の代替施設建設を要請していて、モンデール駐日大使と橋本首相の会談時に大田知事に電話で伝えた。当時、戦略的に要衝の地、普天間を返すとは誰も思っていなかった。だから県外や国外などの話はなく、それが当然の前提だった」

 Q:米側は辺野古案は日本側から出たと言っている。
 「海上施設は私が提案した。返還は決まったが、嘉手納統合は駄目だとなって移設先探しに苦労していた。その時に橋本首相、梶山静六官房長官から指示された。基地を沖合に出すので安全や騒音問題もクリアでき、相対的に生態系への影響も小さく、何より撤去可能ということでくい打ち桟橋(QIP)方式を提案した。SACO最終報告の選択肢の一つとして、外務省を通じて米側から出させた」

 Q:政権内部にいた。現状をどう見るか。
 「当時、沖縄が要請してきたのは2点、普天間の返還と海兵隊の削減だ。官邸内で海兵隊の削減も検討すべきだと言ったが、さすがに橋本さんは受け入れなかった。しかし、10年するとアメリカがグアム移転を提案してきた。不可能だと思っていたことも安全保障環境で変わる。辺野古移設はやむを得ないとしても沖縄の海兵隊撤退や削減、基地の撤去、県外、国外への移転も含めて出口戦略も並行して交渉すべきだ。これは首相と大統領でやるしかないが、追求すべき価値があると思っている」(聞き手・仲村良太)
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 えだ・けんじ 1956年生まれ。東大卒。旧通商産業省から首相秘書官を経て、衆院議員。現在5期目で、民進党代表代行。

 

ラスト・デミング氏=2016年3月30日、米ワシントン市内

<ラスト・デミング元在日米首席公使、臨時大使代理>三者間の合意、解決が重要 法廷闘争、日本の内政問題

 Q:普天間飛行場の返還合意から20年になる。
 「20年後の今も普天間の返還を試みようとしていることに失望している。しかし、普天間移設はSACO(日米特別行動委員会)の中でも大きな部分だが、他の部分は前進している。20年間で、本島中南部の住民の負担や米軍のプレゼンス(存在)を減らすために多くの土地が返還または返還に向けた手続き中だ」
 「だが、最も困難な問題はもちろん普天間移設だ。米側、日本政府側、沖縄側、民間側の全てによる失敗であり、1人の責任ではない。とても複雑な状況である」

 Q:翁長知事は移設阻止を諦めないと言っている。
 「われわれが代替施設を持たなければ、(普天間は)そのまま基地として運用し続ける。可能な限り状況を変える必要がある」

 Q:現行計画はいまだ実行可能な計画か。
 「最善の計画だ。それは完璧な計画ではない。新しい施設による影響はあるだろうが、普天間閉鎖を可能にする。普天間で運用することによる生活妨害や沖縄の人々への危険もより少なくなる。われわれがそれをできないでいることは、とても欲求不満だ」

 Q:SACOのメンバーだった。モンデール元駐日米大使や元国務省日本部長は日本政府が本土移転を望まなかったと証言している。
 「日本政府ではなく、九州や他の地方自治体だ。新しい米軍の飛行場を持つことに熱心だった県はなかった。しかし、全ての施設を新たに造り始めるのはとても困難だった」

 Q:日米両政府はこの硬直した問題をどのように解決すればいいのか。
 「沖縄と日本政府の間で裁判所による和解が焦点となっている。これは日本の内政問題だ。この問題で日本と米国の間に大きなギャップは見られない。東京と沖縄の問題だ。今年は裁判所の決定が出される重要な年だ。袋小路になるのか、それとも現行計画を進める方法があるのか。将来がどうなっているのか不確かだ。米政府、日本政府、沖縄の三者間で、合意によって解決されることが重要だ。その解決は同盟を弱めるものでなく、より強めることが重要だ。プラスサム(互いの利益の合計が増す)の解決であるべきだ」
 (聞き手・問山栄恵ワシントン特派員)
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 ラスト・デミング 米国務省日本部長、駐日首席公使、国務副次官補(東アジア・太平洋担当)など歴任。在日米軍再編交渉などに携わった。2011年にはケビン・メア氏の解任に伴い、日本部長に再就任した。父は初代在沖米総領事のオルコット・デミング氏。