なぜ?乗組員は相次ぎがんに…水爆実験後、沖縄での調査はうやむや<求めたものは>1(下)


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「軍の調査で雨水は無害」と見出しで伝える1954年6月9日付の琉球新報朝刊の社説

 「これで安心して一皿のさしみを味わうことができるわけだ」―。1954年6月9日付の琉球新報社説は、西銘文太郎さん(90)=那覇市=が乗っていた銀嶺丸の動向を報じながら、水爆実験後も放射能などの影響がないことを伝えていた。だが、日本国内では当時、沖縄近海で操業した船が水揚げしたマグロから放射能が検出され、廃棄処分となっていた。

 「検査なんてやられた覚えもない」。西銘さんは乗組員に対する検診さえなかったと証言した。

 日本国内では、第五福竜丸事件として知られた1954年3月の米国のビキニ水爆実験による被ばく被害。52年のサンフランシスコ講和条約の発効によって、日本から切り離された沖縄での調査はうやむやだった。

 銀嶺丸はその時も60トンほど漁獲した。ただ西銘さんへの給与はいつもより少なかったことを覚えている。航海手当はもらったが、漁獲量に応じた配当がなかったという。「実際は廃棄されたのではないか」といぶかしがる。西銘さんは沖縄に戻った後、水爆実験のことを周囲から知らされ、身を案じられたという。

 その後、西銘さんは銀嶺丸に乗らなかったが、気に掛かることがあった。同じ乗組員が若くしてがんにかかるなどして、亡くなることが相次いだからだ。2歳下で、銀嶺丸に共に乗っていた弟の文光さんも、今から8年ほど前に肺がんで亡くなった。西銘さん自身も30年ほど前、ステージ5の大腸がんを患い、半日に及ぶ大手術を経験した。

 西銘さんはこれまで自身の体験を語ることはなかった。心境の変化があったのは今年3月、ビキニ事件で被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七さんが亡くなったニュースを聞いてからだ。「記録として残したい」。その思いが強まり、今回初めて証言した。

 「自分は『解決しなさい』と生かされていると思う。日米両政府はきちんと対応してもらいたい」

 69年前、沖縄は日本から切り離され、米統治下となった。沖縄は国際的にもあいまいな位置付けにされた。ビキニ事件当日に浴びた灰の正体は何か。記録もほとんど残っていない中、西銘さんは日米政府にその答えを求め、自身の体験と沖縄を重ねる。
 (仲村良太)

<求めたものは>1(上)を読む>>「あれは死の灰か」初証言

 


 <用語> ビキニ事件
 1954年3月1日、米国が太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で、広島に投下した原爆約千発分の威力を持つ水爆「ブラボー」の実験をし、周辺の島や海域にいた住民や漁船が被ばくした。周辺で操業していた沖縄の漁船も影響が懸念されたが、米軍は当時、魚の放射能検査で反応なしと発表した。米統治下で被爆被害が確認されていないことから、沖縄では日本国内の漁船と異なり米国の慰謝料がない。