米軍がビキニ環礁で水爆実験を行った1954年3月1日。南太平洋上にあるニューギニア島周辺で操業していた沖縄のマグロ漁船「銀嶺丸」の船上に、スピーカーから不穏な言葉が流れた。「爆弾の実験があった」。約30分後、甲板で作業をしていた西銘文太郎さん(90)=那覇市=の身体にほこりのようなものがひらひらと落ちてきた。「あれは死の灰だったんじゃないか」。ことし4月、「第五福竜丸」の関係者の死をきっかけに初めて証言した。1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で、日本から切り離された沖縄。うやむやにされた事件の真相に疑いの目を向ける。
30年7月、西銘さんは当時の知念村久高島で生まれた。戦後、那覇の水産会社で働く、兄の文栄さんに呼ばれ、弟の文光さんと共にマグロ漁船「銀嶺丸」に乗って働いた。
銀嶺丸の乗組員は25人ほど。6歳上の兄、文栄さんは漁労長として船内を取り仕切り、西銘さんは甲板作業のまとめ役だった。銀嶺丸は同じマグロ漁船「大鵬丸」と共に、主に南太平洋で操業し、数カ月ほどかけてマグロ60~70トンを水揚げした。
「仕事は大変だったよ。疲れるから1日6回も食事したさ」。甲板での作業は過酷だった。照りつける太陽の下、マグロのはらわたを取り出し続けた。マグロの血や自分の汗にまみれてぐしょぐしょになるため、船員は裸で作業をしていた。
水爆実験があった日。西銘さんがいつものように甲板で作業をしているとスピーカーから声がした。「作業を止めて」。その声に従い、西銘さんも手を止めたが、すぐには周辺に変わった様子を感じることはなく、しばらくして作業を再開した。
30分ほどたったころだった。空から、ほこりのようなものがひらひらと落ちてきた。甲板にいた裸の身体に付いた。西銘さんは「何かも分からないので、気にしなかった」と振り返る。自分の身に降りかかった事態を知ったのは、港に戻ってからだった。
(仲村良太)
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激しい地上戦を体験した後、日本から切り離され、米統治下に置かれた沖縄では、圧政から不条理がまかり通った。住民はそこから抜け出す手段として復帰を選択した。日の丸の下に戻った記憶が薄れつつある中、あの時求めたものは何だったのか。戦後から復帰までの27年間に起きた出来事の関係者らの証言を交え、沖縄から復帰を見詰め直す。
<用語> ビキニ事件
1954年3月1日、米国が太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で、広島に投下した原爆約千発分の威力を持つ水爆「ブラボー」の実験をし、周辺の島や海域にいた住民や漁船が被ばくした。周辺で操業していた沖縄の漁船も影響が懸念されたが、米軍は当時、魚の放射能検査で反応なしと発表した。米統治下で被爆被害が確認されていないことから、沖縄では日本国内の漁船と異なり米国の慰謝料がない。