60年アイゼンハワー大統領来沖 米軍、我慢ならん 「人権取り戻す」宮森小墜落抗議<求めたものは>2


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1960年6月19日、アイゼンハワー大統領来沖。抗議の横断幕を掲げる沿道の人々と警護の米兵(県公文書館所蔵)

 1960年6月19日、群衆約1万人が琉球政府の行政府ビル=現那覇市の県庁付近=を取り囲んだ。かつて「沖縄の基地の無期限保有」を明言したアイゼンハワー米大統領が大田政作行政主席と目の前のビルで会談していた。「絶対に我慢ならん」。前年に起きた宮森小学校米軍ジェット機墜落事故の賠償金引き上げを求め、遺族とともに伊波宏俊さん(81)=うるま市石川=が声を上げた。米兵が立ちはだかり、銃の持ち手部分を体に押し付けてきた。痛みに耐えながら、伊波さんはにじり寄った。

 1960年6月19日、群衆約1万人が琉球政府の行政府ビル=現那覇市の県庁付近=を取り囲んだ。かつて「沖縄の基地の無期限保有」を明言したアイゼンハワー米大統領が大田政作行政主席と目の前のビルで会談していた。「絶対に我慢ならん」。前年に起きた宮森小学校米軍ジェット機墜落事故の賠償金引き上げを求め、遺族とともに伊波宏俊さん(81)=うるま市石川=が声を上げた。米兵が立ちはだかり、銃の持ち手部分を体に押し付けてきた。痛みに耐えながら、伊波さんはにじり寄った。

復帰前の米軍による事件事故などを振り返る伊波宏俊さん=28日、うるま市

 地元のうるま市石川は、米軍占領当初の住民統治機構「沖縄諮詢会」が設置されるなど、戦後の出発地だ。5、6歳の伊波さんが地元で目撃した事件は衝撃的だった。伊波さんら家族が自宅近くの畑で一休みしていた時、すぐ近くで若い女性が米兵らに乱暴され、助けを求めていた。伊波さんの母親は家族に静かにするように言った。女性を助けられなかった。

 15歳の時には、近所の6歳の女児が米兵に暴行、殺害された。「由美子ちゃん事件」である。「ショックだった。米軍がいる限り事件が起こると感じた」と伊波さんは唇をかむ。暴力によって、人権が踏みにじられる事件はその後も続いた。59年、宮森小学校に米軍ジェット機が墜落。児童12人を含む計18人が死亡し、210人が重軽傷を負う大惨事だった。琉球大学に入学すると学生会で復帰運動に取り組んだ。「平和的に人権や民主主義を取り戻したい」との思いがあった。

 60~70年代にかけてベトナム戦争の出撃基地となった沖縄では、米国への反発が一層高まっていく。そうした機運は、米軍の新たな土地接収を阻止する後押しとなった。伊波さんらが参加した「昆布土地闘争」では、5年におよぶ抵抗によって、米軍はうるま市昆布の土地約7万平方メートルの接収を断念した。「初めて米軍の土地接収を阻止した。民衆の動きが状況を変える、民主主義を実感した」

 72年5月15日の「復帰」の日、伊波さんは沖縄市で復帰への抗議集会に参加していた。沖縄側は復帰時に米軍基地の「即時無条件かつ全面返還」を求めたが、日米両政府が基地の維持で合意したためだった。

 日本への復帰から来年で半世紀。沖縄の人権は尊重されるようになったのか。米軍基地に絡む事件事故は今も絶えず、名護市辺野古では新基地の建設が進む。

 現在、伊波さんは平和ガイドとして県内外の教員や子どもたちに沖縄戦や戦後史を伝えているが、参加者と接し、沖縄の戦後史が十分に継承されず、沖縄への理解が足りていないと感じる時もある。

 61年余前、「沖縄を返せ」「アメリカ出て行け」の声がアイゼンハワー大統領に向けられた。伊波さんは言う。「われわれが求めた復帰とはかけ離れ、沖縄は返ってきたが、アメリカは出て行かず、米軍基地は残った。戦後史を通じて、日本政府を問い続けることが大事だ」
 (中村万里子)


 <用語>アイゼンハワー大統領の来沖
 1960年6月19日、アイゼンハワー米大統領が来沖した。元々東南アジア諸国訪問の一環として日本訪問を計画していたが、激しい反安保闘争のため本土への訪問を諦め、沖縄に寄ったとされる。4月に結成された沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が来沖当日、祖国復帰要求を求める1万人集会とデモ行進を行った。歓迎ムードの一方、沖縄を抑圧し続ける米国の大統領に抗議の声が上がった。