琉球政府前広場に到着した聖火はランナーの手で聖火台にともされ、拍手と歓声を浴びながら赤々と燃え上がった。前回の東京五輪から6年前の1958年4月、沖縄は第3回アジア競技大会の聖火リレーに沸いていた。
「皆さんこぞって集まり、聖火ランナーに激励の言葉を送ってください」。当時、那覇高校教諭だった中島政彦さん(90)=那覇市=は、リレーの先導車に乗り込んで沖縄本島のコースを一周し、ランナー通過をアナウンスした。沿道では大会旗を振る住民の歓声がこだまする。中島さんは「あの成功体験がいわば予行演習になり、64年の東京五輪の聖火リレーにつながったと思う」と振り返る。
米統治下にあった戦後の沖縄で、スポーツを通じた「復帰」はいち早かった。国民体育大会に沖縄代表は52年から参加を始め、翌年には日本体育協会の沖縄支部が立ち上がる。戦前、戦後と体協組織の充実に尽力した当間重剛・元行政主席の存在は大きく、東京五輪の聖火リレー沖縄招致でも中心的な役割を担った。
64年9月。日章旗の掲揚が米軍に認められていなかった58年とは打って変わり、コースの至る所には聖火を迎える日の丸があふれかえっていた。それは本土との一体性を示すシンボルとして、観衆はスポーツの祭典に「祖国復帰」の夢を重ねるように、聖火ランナーに選ばれた若者に声援を送り続け、酔いしれた。
後に県高校野球連盟理事長などを務める南城市の城間森邦さん(74)は、知念高校3年だった64年、トーチを持つ正走者の1人に選ばれた。地元の津波古区の沿道にほぼ全ての区民が並ぶ中を「無我夢中で走った」と話す。
城間さんは体育教員を目指す野球少年だった。首里高校が甲子園に初出場して数年。沖縄出身初のプロ野球選手となる安仁屋宗八さん(76)=沖縄高校卒=は二つ上の世代に当たる。城間さんは回想する。「今に比べるとバットもボールも十分になかったが、本土に追いつき追い越せという時代だった」
石川高校2年で陸上部だった空手家の佐久本嗣男さん(73)=劉衛流龍鳳会会長、那覇市=にとって、聖火リレー出走は人生の大きな転換点だった。「あの感動がなければ今の自分はない」と言い切る。
出身地恩納村の万座ビーチから恩納小中学校までの区間、聖火をつないだ。日の丸やティーサージ(手拭い)が翻る沿道の様子や、潮風のにおいは今も忘れていない。本土に渡った聖火が日本列島を駆けた後、最終ランナーが東京・国立競技場の聖火台に点火したシーンを、石川高校の白黒テレビで見た。「自分がつないだ沖縄の火がそこにある。スポーツの道に進むと決めた」
佐久本さんは日本体育大学に進学し、空手の鍛錬に本格的に打ち込む。沖縄に戻って体育教師をしながら、空手の国際大会で連覇を重ねる偉業を成し遂げた。
あれから57年。再びやってきた東京五輪で空手は正式種目になり、佐久本さんの教え子の喜友名諒選手(30)にメダルへの期待がかかる。自身も監督として臨む佐久本さんは、少年期の聖火リレーがもたらした浅からぬ縁をかみしめている。
(當山幸都)