グラウンドを駆けた2人の高校生がいた。卒業後、1人は琉球古典音楽の道へ。もう1人は日本一を目指すスポーツ指導者となった。
前県立芸術大学学長の比嘉康春(67)は辺土名高校の27期。豊かな自然の中で高校生活を送った。
1953年、東村有銘で生まれた。辺土名高校1年生の時に野球部やバスケットボール部に所属し、2年生で陸上部に転部した。辺土名高は駅伝の強豪校。「新聞社主催の駅伝大会で区間賞を取った」と語る。
3年間、寮生活を送った。「勉強よりも自然と遊んだ。陸上の練習が終わったら海に飛び込んだ。夏は饒波川でエビを取ってボイル焼きにした。今までの人生で一番楽しく、輝いていた時期だった」
3年生になり腰痛に苦しみ陸上を中断した。失意のなか辺土名高を卒業。72年3月、治療のため叔母のいる大阪に向かった。復帰の日、土砂降りの沖縄を伝えるテレビ画面を見つめた。そのころ、琉球古典音楽の大家、幸地亀千代のレコードを聞く。
「郷愁に駆られた。生まれ島有銘の八月踊り、正月にすーじ(路地)で流れる『かぎやで風』。懐かしい風景が浮かび、ぽろぽろ涙が流れた。三線はいいな、と思った。これを生きる心のよすがにすると決めた」
心の中にある原風景がよみがえり、居ても立ってもいられず沖縄に戻った。日本電信電話公社(現NTT)に就職するとともに、野村流古典音楽保存会会長を務めた安富祖竹久に師事した。
師の下で稽古に励みながら職場でキャリアを重ねた。99年、NTTを退職。沖縄県立芸大の教員となり、21年にわたり若い演奏家を育てた。2014年から20年まで学長として大学運営の先頭に立った。
「一介の実演家が若い人を指導することが楽しみで芸大に入り、若くて素晴らしい才能と出会うことができた。いい夢を見た」
国指定重要無形文化財「組踊」保持者の比嘉は実演家であることにこだわる。心の中には三線の音が響く故郷有銘の原風景がある。
卒業後、比嘉と新聞に取り上げられる回数を競ったのが、バスケットボール指導者の安里幸男(67)。「康春は県立芸大学長になった。逆転ホームランを打たれたよ」と笑う。今も連絡を取り合う仲だ。
辺土名高がある大宜味村饒波(ぬうは)の生まれ。生徒に長年親しまれている学校そばの商店が安里の実家である。幼少の頃からバスケット部員の練習を見ていた。中学、高校とバスケットに打ち込んだ。しかし、専門の指導者はいなかった。
「先輩たちの練習を踏襲するだけで一生懸命。これでは勝てない。悔しい思いをした」
体育館はなく、グラウンドで練習した。冬場は強風がコートを吹き抜けた。「シュートしたボールが1メートルくらい風に流されるんだよ」
高校卒業後、体育教師を目指し、中京大学へ進んだ。「バスケットの指導者になりたかった。後輩に悔しい思いをさせたくない」
大学卒業を控えた76年春、強豪・能代工業高校の名指導者、加藤廣志を訪ねた。「加藤先生はやる気に満ちあふれた集団をつくっていた。良い指導者は生徒のハートに火を付け、奮い立たせる。能代工業にはそれがあった」
帰郷した安里は辺土名高バスケットボール部の外部コーチとなる。平均身長160センチ台の小柄な選手を前に「日本一のバスケットの方向性を示すゲームをしよう」という壮大な目標を掲げた。
「生徒はぽかんとしていたね。田舎の高校から日本のバスケットボールを変えようというのだから。でも、笑われるくらいの目標を立てたのが良かった」
情熱を込め、技術を説く安里の指導に選手は付いていった。78年の全国高校総体で辺土名高校は3位となった。辺土名高男子バスケは大きな旋風を巻き起こした。
その後も県内各地の高校で指導し、選手を育てた安里。「指導者は、いつもわくわくしてコートに立たなければならない。思いは選手に伝わる。これを何年持ち続けるかですよ」
退職後、安里はうるま市の自宅にバスケットボールミュージアムを開設した。名指導者の「わくわく」がここに詰まっている。
(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)