緑のパッチワークのような、美しい集落だった。かやぶき屋根の家屋はフクギに囲まれ、畑では桑や芋など農作物が育まれた。嘉手納町水釜の福地勉さん(71)は、戦前に父・正雄さんや祖父母が暮らしていた旧北谷村・千原地区の様子をそう聞いている。千原は今、嘉手納基地の中にある。「故郷に戻りたい」と語っていた父は、24年前に亡くなった。
父は戦争体験を語りたがらなかった。戦時中は関東の軍事工場で働いたという。戦後、沖縄に戻ると「オフリミット(立ち入り禁止)」と掲げられたフェンスに阻まれ、故郷に入れなくなっていた。仕方なく嘉手納町屋良に居を構えた。
住民がばらばらに散っても、千原の人たちのつながりは切れなかった。郷友会を結成し、交流を続けた。父は「千原の行事には必ず行きなさい」と言った。
米統治下の沖縄は、米軍関係の事件事故が繰り返された。1968年11月19日未明、B52戦略爆撃機が嘉手納基地内に墜落した。自宅で就寝中、地面を突き上げるような激しい音に飛び起きた。黒い煙が薄暗い空に立ち上り、赤い炎が見えた。ベトナム戦争の最中に起きた事故。「戦場のそばに住んでいる」と痛感した。
心残りがある。幼少期、祖母に連れられ、しばしば基地内の黙認耕作地へ行った。爆音を上げて近くを離着陸する米軍機が怖かった。逃げ出したくなり、祖母を遠ざけるためひどい言葉をぶつけた。「優しかった祖母を傷つけてしまった」と今も悔やむ。
父は「いつか千原に戻れるはずだ」と話していた。だが、基地は拡張し、返還の兆しはなかった。相次ぐ事件事故と、日常的に受ける爆音被害。復帰を果たせば「日本本土も平等に基地を負担してくれるだろう」と期待した。
思い描いていた変化は、復帰後も訪れなかった。そんな中、米軍機の夜間の飛行差し止めを求める訴訟の原告募集を耳にし、父と一緒に原告に加わった。日本復帰10年の1982年、第1次嘉手納爆音訴訟が起こされた。「飛行差し止めが実現し、基地の縮小にもつながるかもしれない」。司法に望みを託した。
1994年の一審判決は過去に生じた被害の賠償は認めたものの、飛行差し止めは退けた。控訴審でも差し止めは認められず、判決が確定した。期待した分、失望も大きかった。諦めの気持ちになり、第2次訴訟には加わらなかった。
「被害を訴えないと、容認することになる」と、第3次訴訟では再び原告に。3次も願いは届かず、飛行差し止めは認められなかった。復帰50年を迎える来年、第4次訴訟が提起される予定だ。
平穏な日々を求め、「日本」になることを望んで49年。この間、集団的自衛権の行使を可能とした安全保障関連法が施行されるなど、日米同盟は強化されてきている。「沖縄が復帰したんではない。まるで日本が沖縄化したようだ」
(前森智香子)