司令部中央部への到達が命題に 検討委「徹底調査」求める<32軍壕を読み解く>5


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1994年度の試掘調査報告書に掲載された司令部中央部の第一坑道の枝坑の写真。上の方に鉄筋が突き出ており、この先が第1坑道とみられる

 地上戦に備えた首里城地下の日本軍第32軍司令部壕の構築は、1944年12月に学徒や住民を動員して急ピッチで行われた。全長千メートル余り、5つの坑道で結ばれた壕内には、牛島満司令官をはじめ総勢千人余の将兵や軍属が雑居。45年4月、沖縄本島中部に上陸した米軍は5月、首里に迫った。

 太平洋戦争で日本軍はミッドウェーやレイテで敗戦を重ねる中、大本営は32軍に「本土防衛の防波堤」の役割を与えた。32軍司令部は首里で「玉砕」か南部撤退か迷った末、南部撤退し、徹底抗戦を決定。5月27日に摩文仁へ向かった。

 5月29日、米軍は首里を占領し、日本軍の中枢陣地であった32軍司令部壕を丹念に調べた。その時の米軍情報報告書「intelligence monograph(インテリジェンス・モノグラフ)」は、今も壕を知るための一番詳しい資料となっている。

■戦後、県が試掘調査

 戦後、那覇市や県なども調査を試み、県は1993~94年度の試掘調査で壕の詳細位置を初めて確認し、第3坑道と第2坑道が当時に近い姿で保存されていることを突き止めた。「沖縄県旧第32軍司令部壕試掘調査業務(Ⅱ期)報告書」(95年3月)には、主要部の第1坑道まであと6メートルの所まで掘り進めたことが記されている。その場所を写した写真では、正面上部に鉄筋が突き出ており、その先は土砂で埋まっている。その先が第1坑道とみられ、そこに達するため、約6メートルの迂回路を増設する案が練られたが、翌年度以降は予算が付かず実現しなかった。しかし、同報告書には「第32軍司令部壕の歴史的遺産としての価値は、あくまで司令部中央部を含めて評価されるべきものであり、その意味では司令部中央部への到達は、今後に残された大きな命題である」と記されている。

 97年度、県の検討委員会で「第32軍司令部壕保存・公開基本計画」を策定。32軍壕を戦跡文化財と位置付け保存・公開するとしたが、この計画も、98年に県政が交代すると多大な費用を理由に断念された。

■首里城再建機に再議論

1994年度の県の試掘調査報告書に記載された、司令部中央部に達するため計画された3つの案。(1)の6メートルの「迂回路増設案」が最有力とされたが実現しなかった

 計画が息を吹き返したのは、一昨年の首里城火災後、「地上部の正殿を再建するのであれば、地下の32軍壕を平和の発信のために保存・公開すべきだ」との声が高まったことだった。県への働き掛けの中心となったのは90年代の県の検討委員会の会長を務めた瀬名波栄喜氏らがつくる「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」。県政も世論の後押しを受け、32軍壕の保存・公開へ方針を転換した。20年9月の同会の要請に謝花喜一郎副知事は「今の県政でしっかりとやり遂げたい」と応じ、玉城デニー知事は新たな検討委員会を立ち上げ、今年1月の委員の委嘱式で委員会の提言を受け止め、整備へ予算も検討する考えを示した。

 今後、壕中央部の調査の可否や公開の範囲、保存の仕方などが焦点となるが、議論は入り口に立ったばかりだ。今年3月の2回目の検討委では、県教育庁の担当者から、県が入れていない第1坑道や第4坑道の文化財指定は「現状では難しいと思う」と難色が示された。これに対し、委員の吉浜忍元沖縄国際大教授は「ちょっと違和感がある。徹底的に調査して価値を知ることを前提にしないといけない」と指摘。他の委員からも全体の調査を求める意見が相次いだ。

 戦争の愚かさと南部撤退の過ちを伝える場所として、32軍司令部壕の保存・公開を望む声は根強い。体験者や県民の思いにどう応え、体験者が少なくなる中で沖縄戦の教訓を後世にどう語り継いでいくのか、県の姿勢が問われている。

 (中村万里子)
 (おわり)