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辺土名高校(5)世界自然遺産の地 実弾演習から山を守る 平良啓子さん、比嘉明男さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
国頭村安田区民らによる実弾砲撃演習阻止行動=1970年12月31日

 疎開学童を乗せ、米潜水艦に沈められた対馬丸の生存者で、小学校教員だった平良啓子(86)は辺土名高校の8期。「反戦平和の心を伝えたい」という思いを込め、自らの体験を子どもたちに語り続けてきた。

 1934年、国頭村安波で生まれた。対馬丸に乗ったのは安波国民学校4年生の時。撃沈後、洋上を6日間漂流し、生き延びた。

 戦後、安波中学校を経て辺土名高校に入学した。家は貧しく、父は当初、進学には反対だった。

 「家ではお手伝いが多くて勉強ができない。家を飛び出して勉強したかった。進学に反対する父を安波中学校の校長先生が熱心に説得してくれた」

 安波中から高校に進学したのは4人。安波の集落で合格を祝った。父も合格を喜んだという。

平良啓子氏

 国頭、東両村から生徒が集った寮での生活が思い出に残る。「言葉を聞くだけで出身地が分かった。イントネーションが違うんです」。副寮長として寮生のまとめ役も務めた。

 寮の食事は粗末だった。実家を離れ、つらい思いをしていた平良を大宜味出身の同級生が励ましてくれた。「おにぎりやイモを分けてくれた。とても優しくしてもらった」

 上級生の男子生徒はいろんな頼みごとをしてきた。「先輩から『ノートを借りてきて』とか『ラブレターを渡してくれ』とか言いつけられた」と懐かしむ。

 1953年に辺土名高を卒業。那覇で事務職をした後、母校の安波小学校の依頼で教壇に立った。19歳の臨時教員は貧困に苦しむ児童の食事や衣類に気を配った。給食時間に対馬丸の体験を語るようになったのもそのころからだ。

 「銃を持ってはいけない。戦争に加担してはいけない。そのことを子どもたちに伝えたかった」

 40年余りの教員生活を終えた後も語り部の活動を続ける。自身の対馬丸体験を原点に平和を訴えてきた。2017年には大宜味村憲法九条を守る会会長として、「大宜味村憲法九条の碑」の建立に尽くした。

比嘉明男氏

 日本郵便沖縄支社の支社長だった比嘉明男(68)は26期。今年3月に日本郵便を退職し、現在はNPOやんばる・地域活性サポートセンター理事長として、国頭村を拠点に活動している。「世界自然遺産登録が控えている。行政と共に機運づくりに取り組みたい」と意気込む。

 1953年、国頭村安田で生まれた。母子家庭で暮らしは厳しかった。母と一緒に山に入り、木材を切り出す仕事に従事した。山と共に生き、暮らしの糧を得る。比嘉の原点である。

 68年に辺土名高に入学した。テニス部に所属し、インターハイ出場を目指した。部員との合宿が思い出となった。「クラブをやっている人と寝食を共にするのは楽しかった」

 高校3年だった1970年12月、安田住民の暮らしを揺るがす事態が起きた。集落の西に位置する伊部岳で実弾訓練を実施すると、米海兵隊が琉球政府を通じて国頭村に通告してきた。演習予定日の31日、住民は体を張って抗議行動を展開し、演習を阻止した。比嘉も抗議行動の中にいた。

 「山と共に生きてきた住民の生活は演習によって根底から覆される。演習反対は当然だった」

 この経験はその後も安田で生かされる。地域活性化を目的としたリゾート誘致を進める一方、環境保全で高いハードルを課すことで自然を守った。

 高校卒業後、那覇で野菜配送や新聞配達のアルバイトで学費をため、沖縄大学夜間部に入学する。2年次の時、郵便局に採用され沖縄大を中退。国頭郵便局を振出しに配達業務をしながら、辺土名高でテニス部のコーチを務めた。

 バイクでやんばる路を駆け回った比嘉は東、国頭などで局長を務め、2018年に県出身者初の日本郵便沖縄支社長となった。退職で11年ぶりに安田に戻った比嘉は「地元に恩返しをしたい」と語る。

 生徒数が減少した母校が気がかりだ。「世界自然遺産となるやんばるで教育を受けられる場をつくっていくのは行政の役目。特色ある学校づくりを進めてほしい」と力説する。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)