戦時中に米軍に攻撃されて沈没した船は、「対馬丸」だけではありませんでした。1942年から45年にかけて、沖縄関係者が乗った船が攻撃され犠牲になったのは26隻、死没者数は県出身者3427人を含む4579人(県調べ)といわれています。45年3月に米軍は慶良間諸島に上陸し、沖縄は戦場となっていきましたが、海上ではその数年前からすでに戦場となっていたのです。犠牲者の大半は、戦後補償が受けられていません。
沖縄に南洋から引き揚げてくる人たちや、本土の軍需工場で働いていた帰省客、また沖縄から本土への就職や疎開と、さまざまな人が船に乗っていました。
当時、日本軍はいつどの船が米軍の攻撃を受けたのか、何人が犠牲になり助かったのか、全部秘密にしました。生き残った人たちにも、撃沈されたことについて話すことを禁じ、かん口令がしかれました。
日本軍は海の危険性を把握していましたが、県民には事実を伝えず、乗船を促しました。
船で亡くなった人たちのことを調べ、補償を求める活動をしている「戦時遭難船舶遺族会連合会」の大城敬人事務局長(78)=名護市議=は「家族の元には遺骨もなく行方不明者扱いとなり、亡くなった乗船者には補償もされていません」と話します。
戦争で亡くなった軍人や軍属、準軍属とその遺族には援護法という法律の下、国から障害年金や遺族年金が支給されますが、戦時中に遭難した民間の人たちは、補償の対象外です。
沖縄はサイパンやテニアンなど南洋群島に戦前移民した人たちが多く、男性は働き手や戦闘要員として島に残り女性や子どもは沖縄に帰されたことも県出身者の犠牲者を多くしました。
戦時中撃沈された船の状況が分かり始めたのは、戦後37年ほどたった1982年ごろからでした。大城さんにある遺族から相談があったことがきっかけでした。船会社から事故報告書や乗船名簿などを手に入れて調べていったそうです。
1983年と87年、94年、2001年には、南西諸島近海で海上慰霊祭が行われました。1993年に県は「戦時遭難船舶犠牲者問題検討会」を設置して報告書をまとめました。県は、犠牲者に「何らかの処遇が必要」としながらも、解決には至っていません。
最近大城さんは米公文書館から、戦時中の米軍潜水艦の無線通信記録を入手しました。その記録によると沈没した「湖南丸」「嘉義丸」「赤城丸」などは出港前から到着先、どんな荷物や軍の部隊が乗船していたか、全て米軍に把握されていたそうです。米軍は日本軍の暗号を解読して、狙いを定めていました。
大城さんは「米軍の無線記録を解明して、日米両政府の責任を明確にしてほしい」と話し、戦後補償をしてもらえない限り「死んでも死にきれないという思いだ」と語りました。
文・知花亜美
(2019年8月18日掲載)
遺族の心のよりどころ 海鳴りの像
太平洋戦争の時、乗船中に米軍の攻撃を受け、遭難した犠牲者をなぐさめる「海鳴りの像」は、那覇市若狭の旭ヶ丘公園内にあります。戦時遭難船舶遺族会連合会が1987年6月23日に建てました。
2007年6月には赤城丸、嘉義丸、湖南丸、台中丸、開城丸の犠牲者約1500人の刻銘板も設置されました。
遺骨が手元にない遺族にとって、慰霊碑は心のよりどころとなりました。毎年6月23日には、この場所で慰霊祭が行われています。
同じ旭ヶ丘公園内には、対馬丸の犠牲者を悼む「小桜の塔」もあります。