通貨交換 家計赤字に 補償訴え消費者大会 地域の女性<求めたものは>10


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婦人会活動を中心に地域の生活を作り上げてきた松田敬子さん(左)、當山君子さん=読谷村座喜味

 沖縄戦を生き延び、強制収容所から戻ると故郷はすべてを破壊されていた。「食べるため、生きるためにとにかく働いた」。婦人会など地域活動を続ける松田敬子さん(93)=読谷村=は振り返る。

 男性は現金収入を得るため軍作業に出たが、それだけでは食べられない。地域の女性たちは集まって畑を耕し、焼け残ったイモや豆を植えた。空腹を満たすことを目標に必死に働いた。

 ただ毎日イモでは飽きてくる。新しい調理方法、おいしく育てる畑の耕し方に施肥の方法。「女は学ばなくてもいい」とも言われたが、婦人会の中に生活改善グループを作って知恵と工夫を寄せ合った。鍋や釜をたたいて「明日は必ず良くなる」と歌い励まし合った。

 数年かけて食が落ち着いた後は衣や住だ。かまどは石を三つ並べた簡単なものから石積み、煙突が付いたレンガ積みへと改善していった。改築には現金が必要だ。子どもの高校進学にもお金が必要になっていた。

 生活改善グループでは家計簿の付け方を学び、収入と支出を管理した。ニワトリを飼い卵を売って収入を増やし、家庭菜園で食費を圧縮、冠婚葬祭の交際費を見直して費用を捻出した。

 庶民がつつましい生活をする一方、1971年には1ドル360円の固定相場が変動相場となって県内では物価が高騰した。復帰に伴う通貨切り替えで便乗値上げも横行した。値上げ反対や通貨切り替えによる損失補償を訴えて71~72年、県内の婦人団体は各市町村や国際通りで消費者大会を重ね、東京へ要請も行った。

 地域での生活に向き合っていた松田さんに復帰運動の記憶は薄い。テレビで見る日本本土は豊かで目新しいものにあふれ「復帰したらいいことがある」と希望を感じながら、消費者大会の列に加わった。

 復帰すると、値上げやレート換算で家計簿は帳尻が合わず、せっかく作り上げた家計も赤字に。婦人会は予算や会計が混乱して役員のなり手は不足し、家計簿を学ぶメンバーも半減した。「復帰前が良かった」との声も上がり、混乱は5~6年続いたという。

 この混乱で県外の女性たちのせん望を集めたことがある。「おじい、おばあが財布を嫁に渡すようになった」と當山君子さん(77)=恩納村。戸主が財布を握り、主婦は豆腐一つ買うにも伺いを立てる古い習慣が残っていたが、レート換算が煩雑になり年長者は財布を手放した。復帰は、変わるのが難しい慣習への“荒療治”にもなった。

 當山さんは、婦人会長だった松田さんの言葉を覚えている。「『沖縄の復興には女性が学ぶことが大切。女性が変われば生活が変わる』と。思いを一つにして明日を良くしようと頑張れた」。社会が変わっても日々の生活は続く。踏ん張り続けた年月を振り返り、2人はそっと涙をぬぐった。  (黒田華)