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辺土名高校(6)壮大な目標に熱い指導、人生を変えた恩師との出会い 金城バーニーさん、宮城尚志さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
金城バーニー氏

 1978年8月のインターハイで全国3位となった辺土名高校男子バスケットボール部。選手の一人で34期の金城バーニー(60)は「平均身長160センチ台の小さなチームが勝てたんです。すごいですね」と感慨深げに振り返る。

 60年、大宜味村大兼久の生まれ。大宜味中学校でバスケットボールを始めた。75年7月の県中学校総体のバスケット男子準々決勝でコザ中学校に惜敗したことが金城の心に火を付けた。

 「悔しかった。高校では沖縄一になろうと思い、辺土名高でもバスケット部に入った。僕はがーじゅー。幼い頃から負けず嫌いなんです」

 大宜味村や宜野座村の青年会、北山高校OBチームと練習試合を重ねながら実力を磨いた。時には那覇へも遠征した。

 「朝6時半に出発し、那覇で午前中に3試合、午後4試合を戦った。部員はへとへとだけど力が付いた。いい思い出です」

 3年になった年、大学を卒業したばかりの若者が外部コーチに就任した。辺土名高の先輩でもある安里幸男である。安里は「日本一のバスケットの方向性を示すゲームをしよう」と壮大な目標を掲げた。金城は困惑した。

 「この人は何を言っているんだろう、という感じだった。沖縄一になりたいという僕は、日本一という意味が分からなかった」

 戸惑う部員を安里は熱っぽい指導で引っ張った。「安里先生が僕たちの心のスイッチを押してくれた。挑戦し続けるチームづくりをしたんです」。インターハイ前には見上げるような長身ぞろいのチームを打ち負かすまでになった。小さな選手たちが成し遂げた全国3位。辺土名旋風は高校バスケ界を席巻した。

 金城は「日本一になりたい」という目標を胸に日本体育大学へ進んだ。帰郷後は体育教師として県内高校に赴任。バスケット指導者として選手を育てた。「安里先生は僕に夢を持たせてくれた。僕もそういう指導者になりたかった」

 今年3月、宜野湾高校で30年間の教師生活を終えた金城は「たくさんの生徒との出会いがあった。満足している」と語る。今も同校バスケ部の外部コーチとして夢を追いかけている。

 男子バスケット部が全国3位となった78年8月、空手部も全国空手道選手権大会の男子団体防具付組手で3位に入賞した。その4年後の82年8月、全国高校空手道選手権大会の男子団体防具付組手では優勝を果たしている。38期の宮城尚志(56)は優勝メンバーの一人。「高校時代は空手漬けでした」

宮城尚志氏

 国頭村与那で生まれ、辺土名小学校、国頭中学校で学んだ。空手を始めたのは辺土名高に入ってからのことだ。そこで空手部顧問の新任教師、平田光勇と出会う。平田は部員を鍛え上げた。宮城はその指導を忘れられない。

 「平田先生は新任でバリバリ。期待していたのだろう。やることのレベルが高く、メニューは厳しかった」

 ついて行けず退部する者もいた。宮城も辞めたいと思いながら練習を続ける中で一つの目標が生まれた。「同じ高校生を相手にするよりも、先生に勝ちたいという気持ちになっていた」

 一度だけ平田に褒められたことが忘れられない。「自分のイメージで突きを決めたら、先生から『今のは読めなかった』と言われた。褒められたのはこの1回だけ。うれしかった」と笑う。82年の優勝も「先生に勝ちたいと思っているうちに、いつの間にかそうなった」と宮城は語る。

 優勝後、国体にも出場し、空手漬けだった高校生活はいったん終わった。「もう勝たなくてもいいんだと思った」という。卒業後、山口県の短期大学に入学。帰郷後の86年、母校の女子空手部を指導することになった。他校へ異動する平田の依頼だった。

 宮城が指導した部員は88年3月の全国高校選抜大会の空手女子団体組手で準優勝する。「優勝させてあげられなかったという悔いは残っている」

 空手から離れ、宮城は小学校の教諭となった。安波小学校、辺土名小学校で校長を務めた後、今年4月、国頭村の教育長に就任した。 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)