沖縄戦当時、米軍が攻撃で使用した不発弾が今も県内各地に土深く眠っています。全部処理するまであと70年かかると言われています。なぜ今も広大な米軍基地が沖縄にあるのでしょうか。さらに名護市辺野古では、米軍普天間飛行場の移設先として新たな基地建設が進められています。過去の歴史から今の沖縄を考えます。
◇2019年5月26日掲載
![](https://ryukyushimpo.jp/tachyon/legacy/002/202105/76dad902adbeb622a7500b0bc731ea17.jpg)
住民の土地を武力で接収 広大な米軍基地
米軍は沖縄戦の最中から、広大な土地を接収して、基地を造っていきました。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した後、日本は主権を回復しましたが、沖縄は日本本土から分断され、引き続き「アメリカ世」が続きました。
52年以降、米国民政府は自分たちにとって有利な法令を出し「銃剣とブルドーザー」で土地を奪いました。住民は「島ぐるみ闘争」で反対しました。
復帰前、本土でも基地反対運動が起こり、本土の基地は返されていきました。72年5月に沖縄は日本に復帰しましたが、沖縄の基地返還は一部にとどまり、日本にある米軍専用施設の70%が今も沖縄に集中しています。
日常奪う異常事態 米兵による事件・事故
戦後、米軍・米兵・米軍属による事件・事故が起き続けています。1959年に石川市(現うるま市石川)の宮森小学校に米空軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が墜落し、児童や地域住民18人が亡くなり、200人以上が負傷しました。
2004年には宜野湾市の沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落しました。また県民の反対の声を押し切って配備されたオスプレイが、16年に名護市安部に墜落しました。
米軍人、軍属による乱暴・殺人事件も発生し、基地周辺地域では日常的に米軍機による騒音被害にさらされています。
不公平な取り決め 日米地位協定
日米地位協定とは、日本国内の米軍基地にいる米兵の地位について「日本を守るためにいるんだから、何かあった時はその地位を守ってください」と定めたものです。
米兵が基地の外で悪いことをしても、場合によっては逮捕や裁判の権利は米国にあること、基地内の環境汚染が疑われても、立ち入り調査ができず、基地を日本に返す時に、土地をきれいにする責任は米軍にはないなど、日本側には不利な内容が含まれています。
沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時も、日本の警察は現場に入れず、現場検証ができませんでした。歴代の県知事は、日米地位協定の改定を求め続けています。
「反対」の意思顧みず 辺野古新基地建設
1996年に日本とアメリカは、住宅地の真ん中にあり、とても危険な宜野湾市の米軍普天間飛行場を沖縄に返すことを決めました。ただしその決定には「沖縄県内に移す」という条件が付いていました。
日本政府は代わりの新しい基地を名護市辺野古に造ろうとしていますが、多くの県民が反対しています。
辺野古の海では土砂が運ばれ、埋め立て工事が進んでいます。毎日多くの人が反対の声を上げて海上での抗議や座り込みをしています。
玉城デニー知事は、政府に話し合いを求めています。
【写真説明】
(左上から時計回りで)のぼりを立てて、土地の強制接収に備える住民=1955年7月18日、宜野湾市伊佐浜(県公文書館提供)/県民の反対を押し切って配備されたオスプレイ/ジェット機が墜落した宮森小学校=1959年6月30日/名護市安部の沿岸に墜落したオスプレイ=2016年12月/埋め立て工事が続くキャンプ・シュワブ沿岸部=2019年3月13日、名護市辺野古(小型無人機で撮影)