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アメリカ世、デパート立地、海外客増…国際通りの変化を見続けた土産品店 コロナで閉店「世替わりだね」


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄県は、1972年5月15日の日本復帰から49年を迎えた。様変わりした県経済の中でも、沖縄を代表する産業として存在感を増してきたのが観光だ。日本の南端に位置する島嶼(とうしょ)地域という不利性の克服が沖縄経済の課題だったが、青い海をはじめとした自然の魅力や歴史・文化の独自性により、沖縄は日本を代表する観光リゾート地として多くの人や投資を呼び込むこととなった。観光客数1千万人超を記録するなど経済の拡大をけん引してきた一方で、現状は新型コロナウイルスの影響が直撃し、復帰後最大の試練に立たされている。

昭和堂の店主城間弘行さん(左)と妻の敬子さん=14日、那覇市の国際通り

 沖縄の日本復帰前から国際通りに店舗を構える土産品店が、6月で営業を終えようとしている。サンゴ・真珠・貴金属専門の「昭和堂」。真珠のネックレスやサンゴの指輪など装飾品が並ぶ店内は、古き良き沖縄をとどめたような懐かしさが漂う。1968年の開業から53年にわたって国際通りの変化を見続けてきた店主の城間弘行さん(87)、妻の敬子(たかこ)さん(82)が、取材を出迎えてくれた。

 開業時は、パスポートで沖縄旅行に来る「アメリカ世(ゆー)」の頃だった。庶民にはまだ飛行機は縁遠く、数日かけて船で来県する観光客がほとんど。ドル経済の沖縄では外国製の珍しい商品が安くで買えることから、ショッピング目的の観光も多かった。

 弘行さんは「国際通りはまだ道が整備されていないでこぼこ道で、散水車が通っていた。店内に入ってくる砂ぼこりをよく拭いていた」と当時の風景を振り返る。タバコや香水、時計、宝石などの外国製品を販売した。仕入れた段ボール箱を開けたそばから商品が売れていくほど商いは盛況で、休みなしで働いた。

 今でこそ観光客が中心の国際通りだが、当時はデパートの山形屋や沖縄三越が立地し、「地元客が着飾ってくる場所だった。皆きれいにおしゃれしていた」(弘行さん)という沖縄一の目抜き通りだった。

約40年前の昭和堂の写真。店主の城間弘行さんが孫と一緒に写っている=那覇市の国際通り(城間弘行さん提供)

 入学式や卒業式用の装飾品を買い求める地元客が通い、新年度が始まる3~4月は大忙しだった。復帰以降は日本製の真珠も取り扱い、子どもの大学合格祝いに親子で真珠のネックレスを買いに来る人もいた。ボーナス時期に現金を持って来店する人も多かった。来店客が10人入るかどうかの手狭な店舗だが、最盛期には5人ほどの従業員を雇っていた。敬子さんは「店舗の2階でまかないを作って、仕事の合間に従業員に食べさせていた」と思い出す。

 1999年に山形屋が、2014年には沖縄三越が閉店し、国際通りに地元の客足は次第に遠のいていった。一方で、2010年代に入り中国人の団体観光客が増え始めると、サンゴ製品が飛ぶように売れ、再びにぎわった。今も、鮮やかな赤サンゴのアクセサリーが店頭に並ぶ。

 そして現在、新型コロナウイルスの感染拡大が長期化する中、観光客が途絶えただけでなく、常連客も減った。夫婦手を取り合って経営を続けてきたが、いよいよ「閉店セール」の紙を貼り出した。

 弘行さんは「国際通りの半分くらいの店舗は閉まっているのではないかな。お客さんが来ないもん」と肩を落とす。敬子さんは「お客さんと話したりするのが好きで続けてこられた。良い思い出が多かった。世替わりだね」と語った。

(中村優希)