「復興支えた」壺屋の陶工の誇り 小橋川清正さん<那覇市制100年>


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「壺屋の陶工が戦後復興を支えたことは誇りだ」と話す陶工の小橋川清正さん=18日、那覇市の自宅

 那覇市の戦後復興は壺屋から始まった。戦後の数年間、旧那覇市街地のほとんどは米軍によって立ち入りが禁じられた。1945年11月10日、一般市民に先駆けて壺屋の陶工103人の帰村が許された。不足していた食器や壺を生産するためだ。陶工の小橋川清正(きよまさ)さん(83)=那覇市=の父・清秀(せいしゅう)さんも先遣隊の1人。清正さん家族も父に呼ばれて46年1月ごろに壺屋に戻り、後に家業を継いだ。清正さんは「壺屋の陶工が復興を支えたことは一番の誇りだ」と語る。
 
 清正さんの家は代々、壺屋の陶工だ。1944年の10・10空襲を生き延び、家族で本島北部に疎開した。米軍から逃れようと山中をさまよい、食糧不足に苦しんだ。「どうせ死ぬなら那覇に戻ろう」。清秀さんの意向で南下を始めた。

 東村を通ったある夜、多くの米兵が寝ている場に遭遇した。照明弾が上がって混乱に陥り、清正さんと弟、母らは清秀さんと離ればなれになった。その後、清正さんらは旧石川市(現うるま市)の収容所にたどり着いた。一方、清秀さんは旧久志村の収容所を経て壺屋に集められた。ある日、清正さんらにも壺屋に来るよう連絡がきた。「その時初めて父が生きていると知った。うれしかった」と振り返る。

 那覇市立壺屋焼物博物館の資料によると、陶工たちが壺屋に戻った時、まだ多くの遺体が放置されていたという。陶工たちは茶わんなどの日用雑器を作り、米軍を通して各収容所に配給された。陶工たちも配給を受けながら生産に励み、46年には陶器製造会社も設立した。戦没者を供養するため、収骨する厨子(ずし)も多く作られた。

 清正さんが壺屋に戻った頃、壺屋の外に出ようとするとMP(憲兵隊)が警備していた。小学校3年の時には同級生ら数人が不発弾を触って命を落とした。

 50年代に安価な日本製陶磁器が出回るようになり、壺屋陶工の仕事は減った。だが清正さんは自然に壺屋焼が好きになり、家業を継いだ。後に清正さんの息子2人も陶工になった。清正さんは昨年末まで現役だったが、右手が震えるようになり今年1月に引退した。

 昨年からのコロナ禍で観光客が減り、壺屋焼も厳しい状況に置かれている。清正さんは「終戦直後も、ばい煙問題で登り窯が使えなくなった70年代も大変だった。必ずコロナ禍は終わる。今後どういう作品を作るか、立ち止まって考える時期にしたらいい」と後輩たちにエールを送った。 (伊佐尚記)