特集上映、講座、カフェ…桜坂劇場の支配人・下地久美子さんがつくる「誰もが楽しめる」空間 藤井誠二の沖縄ひと物語(27)


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 OCN(沖縄ケーブルネットワーク)の情報番組「あまくま歩人」で、自身が勤める「桜坂劇場」で上映される映画をいつもはにかみながら紹介している女性といえば膝を打つ人が多いのかもしれない。月に1回のレギュラー出演だが、2019年から務めているから、すっかり番組の「顔」である。

 そう水を向けると、「映画はスタッフで分けて観て、番組で紹介する3本を決めています。私自身は時間的に週に2本ぐらい観るのが精一杯(せいいっぱい)です。多くの人に観に来てもらえるように番組で自分の意見をきちんと伝えられるように心がけていますが、テレビは慣れないですね」とやっぱりはにかんだ。

 「シネコンではかからないような、邦画・洋画問わず、幅広いジャンルの映画を選ぶようにしています。特に特集上映の企画を考えるときは、桜坂劇場でやる意味をみんなで深く話し合ったりしてます」

 ぼくはあるとき、たまたま番組を観ていたら、下地さんが出ていて、いつのまにか「桜坂劇場・支配人」という肩書に「昇格」しているのを目にしてびっくりした。同劇場の社長を務める映画監督の中江裕司さんと下地さんが出会った頃が、入社時期(2007年1月)とほぼかぶるので、劇場を統括する支配人を担う立場になるまで時間がたち、経験を積んだということだ。

桜坂劇場の正面入り口付近で笑顔の下地久美子さん=1月25日、那覇市牧志(ジャン松元撮影)

“沖縄の魂”

 元「桜坂琉映館」「桜坂シネコン琉映」という名称を経た築70年以上たつ映画館の建物をリニューアルして「映画館」とは付けず「桜坂劇場」と命名したのは中江さんのこだわりであると同時に、桜坂劇場のこの建物は、1952年に常設の芝居小屋「珊瑚座」として誕生したことからきている。桜坂劇場一階のカフェ「さんご座キッチン」はその名前を継いでいる。

 今は邦画・洋画だけでなく、多種多様な講座を展開する「桜坂市民大学」や、やちむん販売、カフェ、古書や映画関係のグッズなども販売する。この前なぜか「鉱石」や「化石」の類が売られていて、ついぼくは引き寄せられてしまい「サメの歯の化石」を買ってしまった。いろいろな「娯楽」を詰め込んで、いつでも、誰でも楽しめるコンテンツを提供するのが「劇場」的な要素だろう。「劇場内のふくら舎で販売しているやちむんや沖縄クラフトには“沖縄の魂”があるかどうかを自問自答しながらセレクトしてます」と下地さんは笑顔で言った。

 「ここで働くまで県外にいたし、社長が『ナビィの恋』や『ホテル・ハイビスカス』の監督だってことも入社直前まで、沖縄ではわりと知られているのに私は知らなかったんです」

 「文化や芸術の発信場所という気負いもなくて、ハードルも高くしたくない。映画もジャンルも幅広くして、誰が来てくれても楽しめる場所にしたいと心がけています」

苦しいからこそ

映画上映、イベント開催などに忙しい日々を送る下地久美子さん(ジャン松元撮影)

 伊良部島出身の父と京都出身の母との間に京都で生まれ、すぐに沖縄に住んだ。だから、「自分も幼い頃から沖縄で育ったという思いが強いし、ここに映画を観に来ていました」とかつての映画館だった頃をリアルに体験しているゆえに、そう考えることができる。

 「コロナ禍で娯楽が不要不急と捉えられてしまう場面もあるようですが、戦後、生活に窮していたであろう沖縄の人たちが復興を遂げていく中で、沖縄芝居や歌や踊り、そして映画に興じた歴史を思うと、苦しい時だからこそ娯楽が果たす役割もあると思っています」

 戦後いちはやく栄えた桜坂という街は「開発」などによって姿を日々、変えている。桜坂劇場は、少々大げさかもしれないが、ぼくには街の歴史を守る「砦(とりで)」のように感じられて仕方がない。

 「運営する人は移り変わってきましたが、娯楽を提供する場所として、常に沖縄県民とともにありました。大勢の人の喜びや悲しみを宿したこの場所を預からせていただいている重責を自覚しつつ、今まさに新たな思い出が宿されていくことには喜びでもあります。そして、できれば、いい形で次の世代へ引き継いでいけたらうれしいなと思っています。古くからの市場とつながっている地の利ももっと生かしたい」

沖縄を愛する

 日々、「沖縄の人々は、沖縄を愛している」と感じているという。自分たちの文化を愛(め)で、喫する感情とでもいったらいいのか。多種多様な行事ごとも地域ごとに受け継がれて、それに参加するのも、見るのも好きな土地柄なのだなあと、ぼくも思うことが多い。

 芸能に対する親和性も高いとぼくは感じる。下地さんにその話をしたら、「浪曲の会をやったことがあるんです。浪曲はあまり沖縄では知られていないけれど、生の観客に対して敏感な浪曲師が、“聴き上手というか、そういう県民性があるんでしょうね”とおっしゃってました」というエピソードを話してくれた。

 ぼくが同劇場で「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」を観たときはほぼ満員状態で終わったとたん、歓声が上がった。席を立とうとしないで、映画の感想をしゃべり合うお年寄りが何人もいた。

 「上映した期間が長かったせいもあるのですが、観客動員は2万5千人を超えました。カメジローさんに会いたい一心で、劇場の階段を必死で上がっていくおじいさんやおばあさんを見ていたら、エレベーターやエスカレーターのないことに対して、非常に心苦しかったのはもちろんですが、そびえ立つ階段をのぼるという行為そのものが、“一生カメジローさんを支持し続けます。私の心はカメジローさんとともにあります”という意思表示のように感じられて、とても感動したことを覚えています」

 ここら一帯の桜坂という地名の由来になった桜の樹は、かつての館主だった山城善光さんが劇場前に植えさせたことから由来しているが、残念ながら今は当時の桜は残っていない。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

しもじ・くみこ

 1979年京都生まれ沖縄育ち。沖縄国際大学卒業後、愛知県、神奈川県の工場を派遣社員(いわゆる季節労働者)として渡り歩く。内地生活の孤独な日々を笑顔に変えてくれたのが下地イサムさんの3rdアルバム「開拓者」。2006年12月に帰沖。同氏がライブ会場として多用する桜坂劇場に07年1月、「よこしまな気持ちで」アルバイトとして所属。当時の上司、真喜屋力氏や代表の中江裕司氏と仕事するうちに、娯楽に携わる仕事の面白さを知り、今に至る。取締役(支配人)への就任は15年。血肉となっているのは「ゴッドファーザー」と「インファナルアフェア」。

 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。