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自由の戦いはスマホとともに…静まれ暴力、ミャンマー民主化を止めるな<沖縄発 記者コラム>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

written by 与那嶺松一郎

 

 ミャンマーを訪れたのは観光旅行の1度だけだが、すっかり魅了されてしまった。

 東南アジアや中華圏の国々を訪れると、初めて訪れる場所なのに、どうしても懐かしさを覚えて仕方がなくなることがある。昔は沖縄もこうだったという原風景を見るような思いがわき上がり、人なつっこく親切な人々の顔つきに自分の知っているウチナーンチュの面影を重ねようとしてしまう。食事や言葉、芸能などに沖縄との共通点を見つけてうれしくなる。熱と湿気を帯びた風が肌にまとわりつくのは、不快どころか体の調子が良くなってくるのを感じる。南へ、南へと、意識は自然とウチナーンチュのルーツを巡る思索へと向かっていく。ウチナーンチュである自分は、アジアを生きる人間なのだという自覚が強くなる。私にとってミャンマーもやはりそういう土地だった。

ヤンゴン中心部から外れた生活地域での夕暮れの風景=2017年10月

托鉢する僧、祈る人

世界的な観光名所として多くの人を集めるミャンマー仏教の総本山シュエダゴン・パゴダ=2017年10月

 2017年10月に、琉球新報社営業局が沖縄県内企業に呼び掛けて毎年実施する海外経済視察団に取材同行する形で、初めてミャンマーを訪れた。軍事政権による鎖国的な状況が続き、世界最貧国とも言われてきたミャンマー。2011年の民政移管とともに経済開放へと軸足を移し、米国による経済制裁が解かれると、「アジア最後のフロンティア」として国外から企業進出や開発投資が集まり出していた。

 最大の都市ヤンゴンは、英国植民地時代の面影を残す建築物や整然とした街並みに気品があって印象的だった。都心部は外国資本のホテルが建ち並び、宿泊したホテルの隣には大型ショッピングセンターがあって想像していたよりも都会的な印象を受けた。

 一方で、朝は都心の街頭にも托鉢する僧侶の行列が見られるなど、仏教国としての伝統が随所に感じられる。古都バゴーの巨大な仏像、イルミネーションの後光が差す仏像など、どこに行っても価値観が揺さぶられる。ミャンマー仏教の総本山シュエダゴン・パゴダの息をのむ美しさは一見の価値がある。人気の観光地として人いきれでごった返すが、仏像の前で手を合わせて祈りをささげる現地の人たちも多く見られる。金色に彩られた圧倒的な外観だけでなく、人々の信仰で満ちているからこその神聖な美しさだった。

 貧しくともまじめで信心深いミャンマーの人々。だからこそ、国軍による凄惨な暴力が伝えられる現在の状況はあまりに信じがたく、目の前が暗くなるような思いになる。

スラムで輝くスマホショップ

 この時の経済視察は、旅程を組んでくれた沖縄ツーリストの尽力もあって奥深いミャンマーを体験することもできた。市街地から船でヤンゴン川を挟んだ対岸に渡ると、都会的な風景は一変し、未舗装な道路など生活インフラはとたんに不十分なものとなった。不衛生な環境や粗末な住居で暮らす、いわゆるスラム的な生活も垣間見えた。開発の恩恵は都市の一部であり、発展途上国的な貧しさを残した格差を実感させられた。

 だが、何よりも強烈に脳裏に刻まれた光景は、そこここに見られる現代的なスマホショップの看板だった。いかにも前近代的な田舎の風景の中に、それはあまりにアンバランスに思えた。それくらいに新興国においてスマホが必需品として急速に浸透している証しであり、グローバル経済の象徴であった。

 世界で台頭する新興国を称して「1周遅れのトップランナー」と呼ぶことがある。先進国は、電柱を立てて家庭に固定電話を普及させ、携帯電話の登場による無線通話エリアの拡大、パソコン普及に伴う高速通信網の強化、携帯からスマホへの転換など、段階を踏んで技術を普及させてきた。その過程で、既存インフラが張り巡らせているために、新しい技術が登場してもすぐには広がらないというジレンマを抱えることもある。

 これに対して、既存のインフラ整備で立ち遅れてきた発展途上国は、固定電話の段階をすっ飛ばして一気に最新技術の普及から始まる。老若男女がスマホを手にし、SNSや電子決済といった新しいサービスも社会の中に溶け込みやすい。遅れていたはずの国が「後進性の利益」を最大限に生かし、一気に先進国に追いついて先頭に立ってしまう。

 ミャンマーの街外れのスラムで見たスマホショップの看板は、古さと新しさ、伝統と革新、東洋と西洋などさまざまな価値が渾然一体となりながら、これからのミャンマーが急速に先進国をキャッチアップしていくであろうことを予感させた。

批判は「自由」の証し

 「経済開放により、それまで軍や政府の関係者しか持てなかった携帯電話や車が一気に国民の間にまで広がりました」。バスの車中からヤンゴン市内の渋滞を眺めていると、日本の大学で学んだというガイドのエー・ルウィンさんが、流ちょうな日本語で話してくれた。

 

英国植民地時代の建築物や街並みが残るヤンゴン市街地。右はガイドのエー・ルウィンさん=2017年10月

 エー・ルウィンさんの案内で最初に訪れた場所が、アウン・サン・スー・チー氏が軍事政権時代に軟禁されていた自宅前だった。2015年の総選挙でスー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が大勝し、翌年についに政権の座に就いた。

 だが、私たちがミャンマーを訪れた当時、NLDは国民の期待に応えるような成果を出せず、外交ではミャンマー国軍によるロヒンギャ掃討作戦に対して世界から猛烈な批判を浴びていた。内憂外患の状況にスー・チー氏も精彩を欠いているように見えていたが、エー・ルウィンさんはこう言った。

 「豊かになることで渋滞や治安の新たな問題が生じ、ネットでは政権の不満や批判も飛び交っています。でもそれは、軍事政権時代には考えられないほど言論が自由になった証しでもあるんです」。

 日本で平和な時代に暮らしていると、政府への批判や不満を表現することは当たり前の権利と考え、ありがたみを忘れがちだ。だが、ミャンマーの人たちにとって、表現や言論の自由という諸権利は長い民主化運動の中で、命がけで獲得してきたものだった。もちろん民主化の形はまだまだ不完全である。社会にも多くの問題がある。それでもようやく訪れた自由を享受し、明日は今日より良くなることを確信している市民の瞳に曇りはなく、まっすぐに未来を見据えていた。

 2020年の総選挙でもNLDは圧倒的な勝利を収めた。多くの政治課題に直面するスー・チー氏であったが、国民の支持の高さを選挙結果によって改めて証明した。

 だが、その大勝に対し、国軍が再びスー・チー氏を拘束し、民主化の流れを逆行させる悪夢のような事態が起きようとは思いもよらなかった。ミャンマーの政治や軍隊の暴力性について、私の認識は甘かったのだ。エー・ルウィンさん、今どこでどうしているのだろうか。彼の安否を思うたび、胸がつぶれる思いに襲われる。

目を背けないで

「春の革命」の一環で、3本指を突き上げてミャンマー軍事政権に抗議する在沖ミャンマー人ら=2021年5月2日、那覇市の県民広場

 2月1日のミャンマー国軍によるクーデターから3カ月余りが過ぎた。スー・チー氏の解放を求めて数百万人が参加するまでにデモの規模は膨れ上がり、経済や政府機関の一部がまひする事態となった。政治的な自由を後退させるわけにいかないと、独裁への抵抗を示す3本指を掲げてスー・チー氏の解放を叫ぶ人々の映像が世界を駆け巡った。軍政にひるむことなく立ち上がった市民の勇気に胸が詰まり、テレビの前で何度も涙があふれそうになった。

 だが、統治能力の欠如を押し隠すように、軍は市民への弾圧をエスカレートさせている。同じ国民に発砲を繰り返す信じがたい光景や、無抵抗の市民に対する凄惨な暴行、家族を失い悲しみに暮れる人々の映像が日々飛び込んでくる。国際人権団体によると5月17日までに弾圧による死者数は、確認できただけで800人を超えた。拘束者は4120人に上るという。

 暴力の嵐が吹き荒れている。国軍の人道に対する罪は断じて許されるものではない。市民の多くは非武装であり、命や家族を守ることが優先だ。圧倒的な力の差がある国軍や治安当局の前で、当初のような大規模なデモは減りつつあるかもしれない。それでも人々は精神まで屈したわけではない。大事なことは、私たちも粘り強くミャンマー情勢に関心を持ち続けることだ。

 かつて閉ざされた国であったミャンマーの内情が、リアルタイムで発せられていることはこれまでとの大きな違いだ。現地で奮闘する多くのジャーナリストの活動も大きいが、スマホを手にした市民1人1人がメディアとなり、国軍による暴力の実態や市民の声を世界に発信してきた。

 日本をはじめ各地のミャンマー人留学生たちがインターネットで現地とやりとりし、助けを求める声を世界に届けている。テクノロジーを武器に、非暴力の抵抗は進化している。国軍が最も恐れる国際社会の目をミャンマーに向かわせようとする市民の懸命の発信から、私たちは目を背けてはいけない。

 沖縄は先日の5月15日で、米国が日本に施政権を返還して49年の年月を数えた。来年は50年の節目を迎える。米統治時代は、県民の人権より上位に米軍の存在があり、行政の長を住民自らの選挙で選び出せないなど政治的な自由も制約された。そうした異民族支配に抗い、自治や政治的権利の獲得を訴えて国際社会への発信を続け、ついに「復帰」をかなえたのが49年前の沖縄だった。

 沖縄の歩んできた歴史に立てば、ミャンマーの状況は決して他人事ではない。自由を求めて立ち上がる今のミャンマーの人々に私たちはより深く寄り添うことができるのではないだろうか。復帰から半世紀は大きな節目だが、記憶の遠景に追いやるほど昔の出来事ではないはずだ。
 


与那嶺 松一郎(よなみね・しょういちろう) 1977年那覇市生まれ。2000年入社。中部報道、政治部、文化部などを渡り歩き、経済部長を経て21年から政経グループ長。趣味は映画鑑賞。今回のBGMは、ゆらゆら帝国「ひとりぼっちの人工衛星」。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。