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那覇商業高校(1)創立116年、多士済々 10・10空襲で校舎失う 嘉手苅義男さん、松本嘉代子さん <セピア色の春―高校人国記>


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創立116年の那覇商業高校=那覇市松山

 那覇商業高校は1905年、那覇区立商業学校として創立された。116年の歴史を誇る伝統校である。10・10空襲で校舎を失い、沖縄戦で閉校を余儀なくされる。鉄血勤皇隊などとして戦場に動員され、犠牲となった生徒もいる。

 敗戦後の51年に沖縄群島政府立那覇商業高等学校として開校した。戦前戦後を通じて各界に人材を輩出してきた。

 オリオンビール会長の嘉手苅義男(82)は戦後の5期。沖縄戦で父を失い、戦後の厳しい生活の中で那覇商業高で学んだ。「貧乏で、子育てに苦労する母を助けるため、早く働きたかった」と振り返る。

 オリオンビール創業者の具志堅宗精の薫陶を受けた。「仕事というものに完成はない。次から次へと仕事が生まれてくる。だから仕事は面白い」と嘉手苅は語る。(文中敬称略)

嘉手苅義男氏

 屋部村(現名護市)旭川で生まれ育った嘉手苅義男(82)が那覇に転居したのは小学校5年の時。「旭川では教育ができないと母は考えたようだった。那覇の桜坂にトタン屋根の家を借りて暮らし、母は平和通りで働いた」

 1955年、那覇商業高に入学。母を支え、平和通りで働く生活が続いた。「野菜を売り、反物を担いだ。学校で同級生といるより、平和通りでおばさんたちと過ごす時間が長かった」と回想する。

 昼食を満足に食べることはなく日用品にも事欠く耐乏生活が続いた。忘れられない思い出がある。

 「カミソリを買えず、ひげを伸ばしたまま学校に通っていたら校長に呼び出された。女生徒が怖がって逃げるほどの格好だった」

 そんな嘉手苅に優しい言葉を掛けてくれたのが教師で牧師の運天康正だった。「先生もひげを伸ばしていて、『剃(そ)らなくていいよ』と話してくれた。運天先生に助けられた」

 卒業後、第一相互銀行(現沖縄海邦銀行)に入行。63年にオリオンビール販売に入社。35歳から具志堅宗精の秘書を6年務めた。

 「親父(おやじ)以上に鍛えてくれた。周囲の役員たちは『嘉手苅は空手の巻き藁(わら)みたいだ。いくら叩(たた)いても戻ってくる』と話していた」と回想する。

 那覇商業高を卒業して60年余り。多くの同級生が社業を応援してくれると語る。「卒業生は多士済々。ネットワークも強い。那覇商業を出て良かった」

松本嘉代子氏

 嘉手苅の同級生に料理研究家の松本嘉代子(82)がいる。同じクラスになったこともある。夫で沖縄月星の社長だった松本光雄も嘉手苅の友人だった。

 生まれはフィリピン。戦争中は山中に身を潜めた。戦火に巻き込まれ犠牲となった県出身者もいる。「私たちは食料があったので生きながらえることができた」

 6歳の時、鹿児島に引き揚げ、大分の小学校に入学した。鹿児島で妹を亡くしている。翌年、本部町浜元に帰郷。5年生の時、那覇に移った。「本部には畑がなくて生活できず、那覇に出てきた。両親は新栄通りでアチネー(商売)をしていた」

 早く就職するつもりで那覇商業高を選んだ。「家がすごく貧乏だった。『仕事をするなら商業がいい』と父も勧めてくれた」。ところが2年になって大学進学を希望するようになる。

 「担任が『大学に行かないか』と勧めた。『お金がない』と返しても『行く意思があるなら進学したほうがいい』と説得された」

 卒業後、神奈川の相模女子大学短期大学部家政科へ進み栄養学を学んだ。学費や生活費の工面に必死だった。「沖縄からコーヒーやココア、缶詰を送ってもらい御徒町のアメ横で売った。父母がそれを理解してくれたのも移民経験、開拓精神があったからでしょう」

 その後、東京の料理学校で教師の資格を取得。69年に松本料理学院を開設し、沖縄の食文化の発展に尽くしてきた。近年は琉球料理の継承に力を入れている。「食の変化は早い。琉球料理も薄れている。それを取り戻したい」

 那覇商業高で学んだ3年を振り返り「東盛良夫先生、運天康正先生、宮城絹子先生。すてきな先生方から刺激を受けた。私は周りの人に恵まれたと思う」と語る。教師たちの言葉の数々は料理一筋に生きる松本の財産となった。(文中敬称略)

(編集委員・小那覇安剛)

那覇商業高校の校歌が聞けます。