孔子廟、中国から近隣国へ 琉球は久米村経由で受容 石垣直(沖縄国際大教授)<琉球・沖縄史と孔子廟>上


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久米崇聖会が管理・運営する久米至聖廟(孔子廟)=那覇市

 久米至聖廟(孔子廟)を管理・運営する久米崇聖会に対し、那覇市が土地を無償提供していることについて最高裁判所は判決で違憲と判断した。琉球・沖縄の歴史の中で、孔子廟はどのような位置づけとなってきたのかなどについて沖縄国際大学の石垣直教授が原稿を寄せた。

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 今年2月24日、最高裁判所大法廷は、那覇市久米にある至聖廟(しせいびょう)(孔子廟(こうしびょう))を管理・運営する一般社団法人久米崇聖会(崇聖会)に市が無償で土地を提供していることは違憲であるとの判断を下した。

 その骨子は、同会が毎年9月28日に実施する「釈奠(せきてん)」は、儒教の祖である孔子を祀(まつ)る「宗教的意義を有する儀式」であり、那覇市による土地の無償提供は憲法が定める政教分離原則に違反する、というものだった。最高裁大法廷はまた、同廟が那覇市若狭から同市久米の松山公園内に移転して以降の土地使用料についても、崇聖会側に請求すべきとした。

 那覇市はこれまで、同施設は歴史や文化を学ぶ場所であり、観光施設としての役割もあるとの立場をとってきた。しかし、今回の違憲判断を受け、那覇市は崇聖会側に過去5年間、約3千万円の土地使用料を請求することを決定している。

 筆者の専門は文化人類学であり、憲法が定める政教分離や今回の最高裁判断自体の当否を論じることはできない。しかし、筆者自身がここ数年、久米の孔子廟ならびに釈奠の歴史と現状について調査を進めてきた経緯もあり、孔子廟の存在および琉球・沖縄の歴史におけるその位置づけについて県民が考える材料を提供できればと思い、この小稿を表すことにした。

「釈奠」とは

 「釈奠」とは、祭品を置いて献じることを意味し、その歴史は紀元前6世紀半ばに中国の魯国に生まれた孔子(前552~前479年)よりも古い。周代までには学事や礼を振興するために「先聖」(古の聖王・聖人)・「先師」(古の教師)を祀るものとして、釈奠の制度が整っていった。ただし、当時の釈奠の主対象は文王などであり、春秋時代の後半を生きた孔子はその対象ではなかった。なお、皇帝が初めて孔子を祀ったのは、漢の高祖・劉邦が前195年に魯国を訪れた際に「太牢(たいろう)」(牛、羊、豚)を献じたのが最初だと言われる。

 前漢の第7代・武帝の時代には董仲舒の進言により、古の礼(祭礼、礼節)を重んじた政治の在り方を強調する儒教(儒学)が、漢王朝で重要な地位を占めるようになった。前漢・後漢の時代が終わり、中国は魏晋南北朝の戦乱・割拠の時代に突入したが、国々は競って「太学」・「辟雍」(学府・高等教育機関)や廟を建てて孔子を祀った。武力だけによらず、学や礼を重んじる国家としての自らの統治の正統性を強調したのである。

 分裂状態が終わり、統一王朝である隋・唐の時代になって科挙制度が整えられると、首都だけでなく地方にも学・廟を建てて「先聖」としての孔子を祀る制度が一般化していった。「十哲」(後代の「十二哲」)と呼ばれる弟子や高名な儒家と併せて、仲春(旧暦2月)・仲秋(旧暦8月)の「上丁」(月の最初の丁の日)に孔子を祀る制度が確立するのも、唐代のことである。孔子は歴代皇帝から様々な諡号(しごう)(死後に贈られる封号)を授けられたが、明代以降には主として「至聖先師」の名で祀られた。

 人物としての孔子は、諸侯が割拠する時代を生き、古代の礼に基づいた政治の在り方を説いた。彼は、50代でようやく魯の高官となるが、数年後には政争の末に故郷を離れるなど、その生涯は必ずしも華々しいものではなかった。

 しかし、仁や礼を説く彼の思想は弟子たちに継承された。後に歴代王朝がその礼・学を強調し官僚制度を整える中で、孔子とその教えに対する尊崇は、各王朝が統治の正統性を示す象徴のひとつとなった。このようにして孔子は、官僚として国家に仕える儒士階層の祖たる存在となっていったのである。

周辺諸国への影響

 学や礼の推奨・振興のために国家が主導して孔子を祀る制度は、中国はもとより、その歴代王朝から直接・間接的な影響を受けてきた周辺諸国にも受容された。地理・歴史的に中国と最も近い関係にあった朝鮮では、特に朝鮮王朝(李朝)時代に儒教が重視され、中国様式により忠実な釈奠の実施が目指された。

 他方日本では、古くは奈良時代に、唐の様式を参考にした釈奠が実施された。日本の釈奠は後に衰退したが、朱子学が重視された江戸時代には、五代将軍・徳川綱吉が創建した湯島聖堂、そして各地の藩校などで孔子が祀られた。ただし、その様式は、日本の実情に合わせて部分的に改編されたものだった。

 孔子を祀る制度は、中国の王朝と冊封・朝貢関係にあった琉球でも17世紀に受容された。琉球で孔子廟と釈奠受容の窓口となったのは、主として中国東南部にルーツをもち、海洋交易国家としての王国の外交を支える重責を担った、久米村の人々であった。

石垣直(沖縄国際大教授)

いしがき・なおき 1975年石垣市生まれ。 沖縄国際大学教授。社会人類学博士。専門は文化人類学、台湾・沖縄地域研究。主著に『現代台湾を生きる原住民―ブヌンの土地と権利回復運動の人類学』、近年の主要論文に「琉球・沖縄における釈奠の歴史と現在―久米・至聖廟の事例を中心に」など。